西日   by近衛 遼




ACT1

 夕焼けが、連山の稜線をあざやかに浮かび上がらせている。英泉は高殿からそれを眺めていた。
 そろそろ部屋へ戻った方がいいだろうか。少しのあいだひとりになりたくてここまで来てしまったが、近侍の者が心配しているかもしれない。
 英泉は槐の国の王族のひとりであり、この天坐の砦の長でもある。侍者や身辺警護の衛士が付いていて当然なのだが、いまだにそれに慣れることができなかった。
 仕方がない。七つの年まで、自分が王家の人間だなんて知らなかったんだから。英泉は心の中でため息をついた。


 英泉の父は、先代の槐王の実弟だった。兄王の即位とともに自ら臣に下り、その後は王の片腕としてまつりごとの中枢にいた。が、ある日突然、宜汪は兄に暇乞いをし、天呈の城を辞した。
 その原因となった出来事は、城中の耳目をさらった。なにしろ、王弟である宜汪が社殿の巫女と恋仲になり、公職を捨てて隠遁したのである。このうえない醜聞だった。
 英泉はずっと、両親の本当の名前を知らなかった。彼らは名を変えて、北部の小さな村で暮らしていた。宜汪には薬方の知識があり、それで日々の糧を得ていたのだ。
 幼い英泉には、父は薬師だという認識しかなかった。病人や怪我人のために働く父を、それを支えるやさしい母を、英泉は誇らしく思っていた。薬草の灰汁に染まった手で父に頭を撫でられるときの、なんとも言えない幸せな気持ち。畑の土の匂いのする母の懐は、ゆりかごのように心安らぐものだった。
 そして、英泉が七歳になったとき。
 母が流行り病で亡くなった。まだ二十代半ばだった。父のもとに天呈の城から文が届いたのは、その直後である。
『……もったいない』
 しぼり出すように言った父の声。それはどうやら、槐王直筆のものであったらしい。
 ひと月後、英泉は父とともに天呈の城に上った。宜汪は約十年ぶりに、都への帰参を許されたのである。
 はじめて見る都はなにもかもが驚きに満ちていた。もちろん、王に拝謁したときの興奮と緊張は、他に比ぶべくもない。
『そなたが、英泉か』
 槐王、司汪(しおう)はしみじみと言った。
『面を上げよ。……おお、なんとも利発そうな。母御のことは残念であった。都にあれば、いま少し永らえることができたやもしれぬが、これも天命と思うて、な』
 司汪は小指の指環を外した。
『そなたの父は臣に下ってしまったが、そなたが孤(わたし)の甥であることに変わりはない。孤の親族として、この指環をそなたに与える』
 それは、槐王家の者のみが持つことを許される花押(判)だった。
『御上(おかみ)!』
 宜汪が異を唱えようとした。が、司汪はそっと左手を上げ、
『孤は英泉に話している』
 やわらかな口調。しかし、断固たる意志を持った物言いだった。宜汪は無言のまま頭を垂れた。
 その後、宜汪は天坐の砦を任された。英泉には守役の馮夷をはじめ、武術指南役の源宇(げんう)や日常の世話をする近侍が付けられた。
 見知らぬ人々の中での生活は、七つの子供には負担が大きかった。つい数ヶ月前まで両親と三人で雪深い村で暮らしていたのに、いまは槐の国の中でももっとも重要とされる大きな砦にいる。
 王族としての礼儀作法やしきたりなどは、市井にいた英泉には馴染めないものが多かった。つねに側に控えている侍者の存在も、見張られているようで落ち着かない。食事の際の決まり事、季節や時間や場所などに応じて定められている装束の格、言葉遣いや立ち居振る舞い。それらはかつて宗の国の属国だったころの名残りだ。
 宜汪は砦の長として多忙な日々を送っていた。そんな父に心配をかけてはいけないと、英泉は一生懸命、新しい環境に溶け込もうと努力した。
 あれから十年。
 自分は天坐の長になった。いまでは別段、意識せずとも作法通りの振る舞いができるし、どんなときにも槐の王族として恥ずかしくない対応ができると自負しているが、ときおりふと、ひとりになりたいときがある。
 長ではなく、王族でもなく、ただの「英泉」に戻りたいときが。
 英泉という名は、父と母が話し合って付けた。母の本名は舜英(しゅんえい)といい、その一文字に「清廉に生きてほしい」という父の願いを込めて「泉」の字を加えたらしい。
 王族の男子の名は、王が付けるのが槐の国の慣例である。が、当時、宜汪はいわば都を追放されたも同然の身で、自らの身上を隠していた。当然ながらふたたび都の土を踏むつもりもなく、徒人として一生を終える気でいたから、自分たちで命名したのだ。
 都に戻ったのちに、それが問題になったことがある。王家の花押を与えるからには、槐王から英泉に新しい名を授けるべきではないか、と。
 その意見に対して司汪は、じつに心憎いばかりの返答をした。
『孤はわが甥が、聡く賢く清き心を持つ者となるよう、“英泉”と名付ける』
 こうして、英泉はその名を公に認められたのだ。
 両親が付けてくれた名と、王が与えてくれた名。
 どちらも同じ名だが、その意味するところはまったく違う。王族としての名は、英泉には重いものだった。父をこの手にかけてからはなおさらに……。
 高殿に吹く風がひんやりとしてきた。すでに西の空に日はなく、暗い灰朱が連山を覆っている。
 トン、トン、トン……。高殿に通じる階段を上ってくる足音が聞こえた。一瞬、あの男かと思い、
『馮夷……』
 そう言いかけて、あわてて口をつぐんだ。
「英泉さま」
 梯子のような階段から、武術指南役の源宇が顔を出した。
「和の国から、お客さんですよ」
 いつものように、くだけた口調で用件を告げる。
 源宇は、守役の馮夷と同じく、英泉が天坐の砦に来たときからずっと側近くに仕えている。主従関係はあるにしても、英泉にとってもっとも近しい人物のひとりと言えた。
「和の国から?」
「例の『呪』の一件で、探りを入れにきたんでしょうねえ」
 宜汪に施されていた「呪」は、いままでの「傀儡」の術とは桁違いに強力だった。宗の国と緊張関係にある和の国が興味を持ったとしても、不思議ではあるまい。
「わかった。部隊長以上の者たちを広間に招集してくれ」
「やっときました」
 あいかわらず、仕事が早い。
「大儀。では、参る」
「御意」
 源宇が脇に寄って、作法通りに一礼した。英泉が階段を二、三歩降りたとき。
「あーっ、やーっぱりここにいた!」
 下から、張りのある明るい声が響いた。
「ほーら、アタシの言った通りでしょ。英泉は昔っから、なんかヤなことがあるとここに来て、山を眺めてるようなコだったのよー」
「みっ……水木さんっ、鑑公はこの砦のトップなんですよ。そんなに軽々しく……」
「なに言ってんのよ。アタシはねえ、あのコが十一んときからよーーーっく知ってるんだから。トップだろうがペーペーだろうが、関係ないの」
「そ……そういうわけには……」
 おどおどととした声が、なおも何事が訴えている。
 ちなみに「鑑公」とは、英泉の王族としての称号である。槐の国の王族は王を除いて生母の生家の姓を名乗る慣習があり、それに「公」を付けて尊称とする。英泉の母、舜英は槐の名家のひとつ、鑑家の出身であった。
「あー、もう、うるさいわねえ。英泉は英泉なんだから、それでいいでしょ」
 びしっと言い切って、明るい声の主が明るい表情を英泉に向けた。
「ひっさしぶりねえ」
 揺らめくような金茶色の髪と、薄い焦色の瞳。彫りの深い顔立ちの男は、記憶にある通りの笑顔でそこにいた。もっとも、髪には色とりどりのメッシュが入り、ただでさえ華やかな顔は都の芸妓を思わせるような化粧が施されていたが。
「……水木……さん」
 二年ぶりに会うその人の名を、英泉はやっとのことで口にした。

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