炎の淵より  by 近衛 遼




其の九

『周(あまね)』
 たしかに、焔はそう言った。すがるような瞳で。
 真の記憶の中にある暁の顔が、焔のそれと重なる。
 まさか。
 まさか。
 でも……。


 似ていると思っていた。そうであってほしいと願っていた。それが、自分の心を守るための詭弁にすぎないとわかっていても。それでも。
 もし、そうならば。
 暁が、生きているのならば。

 どうして、こんなことになったのかはわからない。
 暁は「暁」の記憶を失い、いまは「焔」として生きている。それには、自分などが想像もつかないような事情があるのだろう。
 御門なら、きっとそれを知っている。が、おそらく教えてはくれまい。第一、一介の細作が公務に関すること以外で、御門に謁を求めることはできない。
 自分たちは、まもなく槐の国に入る。そこでの仕事は厳しいものになるだろう。いまの自分の力では、この男についていくのがやっとのはず。もしかしたら……いや、かなりの確率で、自分は死ぬことになる。
 人として、死ねたらいい。
 そう思っていた。そのために、どんなことでも受け入れて、ここまで来た。しかし。
 この男が暁ならば。
 死ぬ前に、一瞬でもいい。会いたい。暁に会いたい。
 あのころの自分にはわからなかった。ひとつの愛しかなかった暁の哀しみが。それしか、生きる理由のなかった暁の苦しさが。だが、いまなら、あのときよりはわかる気がする。
 たったひとつのことを支えにして生きるしかない、いまならば。
「……ってえなー」
 焔が、顔をしかめて呟いた。
「あーあ、まいったよー。急に頭が……なにやってんの」
 訝しげに焔が言った。
「ひざまくらなんか、しちゃってさ」
「……覚えてないんですか」
「だから、なんのことよ」
 焔は上体を起こした。
「あ、もしかして、誘ってんの? 好きモノだねえ。こんなとこで」
 床に倒された。まったくいつもと同じ調子だ。
 先刻見たこの男は、子供のようだった。不安定で、怯えていて。
 いったい、どうしたというのだろう。気のせいなどではない。あれは、たしかに暁だった。
「……なんて顔してんのよ」
 真を組み敷いた状態で、焔は首をかしげた。
「いまはじめて会ったみたいに」
 そうだとも。はじめて会ったのだ。この男の中にいる「暁」に。真はその名残りを探した。
「やーめた」
 急に興味がなくなったのか、焔は真を解放した。
「つづきは都を出てからね。槐の国に入る前に、たーっぷり可愛がってやるよ」
 言うだけ言うと、うしろも見ずに四阿を出ていく。真は無言のまま、あとに続いた。


 言葉通りに。
 槐の国との国境近くにある猟師小屋で、真は焔に伽を命じられた。あらゆる方法でそれを行ない、気力も体力も奪われて絶え入るように眠りについたのは、もう空が白みはじめるころだった。
 こんなことで、槐の国の任務に間に合うのだろうか。それでなくとも、城に寄ったために時間を無駄にしているのに。
 つらつらと考えていた真の耳に、「昼まで寝てていいよー」という、のほほんとした声が聞こえた。


『ほんとに?』
 少年は、びっくりしたような顔でそう言った。
『ほんとに、オレのこと、思ってくれるの』
 信じられない、といった表情。真は、なんの迷いもなく頷いた。
『ほんとだよ』
『ほんとに、ほんと?』
『ほんとに、ほんとだよ』
 子供だからこそ言えた言葉。あのときはそれが真実だった。
 暁が好きだった。周以外に好かれていないと思い込んでいる暁が、たまらなく愛しかった。だから。
 暁の過去がどんなものなのかは知らない。周に会うまでの記憶がほとんどないという点だけでも、それがどんなに悲惨なものなのか、想像はできたけど。
 ときどき、わけのわからない悪夢にうなされることがあると暁は言った。具体的なところのなにもない夢。ただ、苦しくておぞましくて。逃げたくても逃げられない。そんな中に自分がいる夢。
『大丈夫だよ』
 真は言った。
『そんなの、ただの夢だもん』
 どんなに恐ろしくても、それは所詮、夢でしかない。
『大丈夫……なのか?』
『そうだよ』
『ほんとに?』
 何度も何度も、暁は訊いた。真も当然のように「ほんとだよ」と答えた。
 そのときの暁の顔。驚いたような、でも、安心したような。そんな会話を交わしたあとは、
『だったら、いい』
 と、少しばつが悪そうに横を向くのが常だった。
 苦しい夢に捕まってしまったのだろうか。いまの「暁」は。
 幼少時の記憶を失ってしまったように、あのころのことをなにもかも忘れてしまったのか。クーデターの一件で。
 あの戦いで、周は命を落とした。暁はそれを、間近で見ていたはずだ。だから……。
 城の庭園で、焔はなぜあんな状態になったのだろう。
 浅い眠りの中で、真は考えつづけていた。淡い色の光が差し込む四阿。ゆるやかな風。それに乗って漂ってくる梅の香。

 ああ。
 ぱちりと、目が開いた。
 もしかしたら。

 散らばっていたパズルのピースが、ひとつ処に集められた。過去と現在を結ぶ卓上に。
 暁とはじめて会ったのは、ちょうどいまの季節。
 同じ季節、よく似た光景。風の音や梅の香りもそれらに加味されて、封じられていた「暁」の記憶を呼んだのかもしれない。
 もしそうならば、もう一度「暁」を呼び出すことも不可能ではない。
 重い体をなんとか起こす。まもなく、焔が戻ってくるだろう。身繕いをして、囲炉裏の前に座した。
 任務の最中に、ほかのことを考えるのは命取りだ。だが、真はどうしても暁に会いたかった。わずかでも可能性があるのなら、それをあきらめたくはなかった。そして、もし会えたら。
『好きだ』
 ひとことでいい。そう言いたい。
 いまも好きだと。いまも想っていると。それだけが言いたい。
「どーしたのよ」
 いきなり、上から声がした。
 またか。真は苦笑した。いまのいままで「気」のかけらもなかったのに。
「なーんか、悟りを開いたボーサンみたいな顔しちゃって」
 ひらりと横に降り立つ。
「あー、やだやだ。そんなのより、アノときの顔の方が断然いいよ」
 腰に手を回して、囁く。
「なんなら、いまから見せてもらおうかなー」
「任務の日程はどうなっているんですか」
 ことさら事務的に訊く。焔は小さく肩をすくめた。
「急がなくても大丈夫だよ。天睛(てんせい)のやつらとは、もう繋ぎを取ったし」
「天睛?」
「そ。じいさんがねー、顔繋ぎしとけって言うから」
 天睛とは、槐の国に点在する砦のひとつで、天峰連山と称される山岳地帯の北端に位置している。和の国の支配下にある久住の城は、天睛の東。さらには、久住に対抗する形で宗の国が築いた天角(てんかく)の砦は、その北東にある。
 なるほどな。
 真は頭の中で地形図を広げた。今回の任務は、天睛、久住、天角を巡るものになるわけか。この男が「繋ぎ」を取ったということは、天睛は独立派が牛耳っているのだろう。そこを根城に、反対派を狩る。
 おそらく、天角には攪乱を目的とした部隊が向かっているはずだ。そして、久住には兵部から応援が出ている。
 急がなくてもいいと、焔は言った。とすれば、まだ天角での工作が進んでいないのだろう。帥も心配していたが、今回の件は一歩間違うと国同士のいくさになりかねない。
「そーゆーわけだから」
 ついさっき着たばかりの衣服が剥がされた。
「アノ顔、拝ましてもらうよ」
 今朝方までの名残りが全身に散らばっている。正直言って、まともに相手ができる状態ではなかったが、真は黙ってその身を供した。