炎の淵より  by 近衛 遼




其の十

 天睛の砦は、連山の砦の中で最も古い。槐の国がまだ宗の国の属国になる前からのもので、装備はすでに老朽化しているというのが一般的な見方であった。
 その物見矢倉ほどの価値しかないような砦に、独立派が集まっている。ということは、実際は天睛にはかなりの備えがあり、軍事的にも重要な位置にあると考えていい。
 いよいよだな。
 真は焔とともに天睛の砦に入った。表向きは、なんの緊張感もない。門衛に咎められることもなく、奥に進む。
 顔繋ぎをしたと焔は言っていた。が、外回りの者たちには詳しい事情は知らされていないはず。それにも関わらず、ほとんどフリーパスの状態で砦に入れたのは、ある意味不気味ですらあった。
「遅かったじゃねえか」
 広間に入った途端に、ガラガラした濁声で怒鳴られた。
「悪かったねえ」
 対照的に、のんびりとした声で焔が答える。
「いろいろ、用事があってね」
「ふん。どんな用事なんだか」
 ちらりとこちらを見遣って、濁声の主は言った。
 浅黒い肌。彫りの深い顔立ち。がっちりとした体付き。目の色も髪の色もカラスのように真っ黒だ。鼻の高さやあごの骨格からして、南方の血が交じっているのは間違いない。
 年は三十ぐらいだろうか。生気あふれる眼差しは十代の少年のそれを思わせたが。
「こっちはタマ(命)張ってるってえのに、そっちはお小姓付きで物見遊山かよ」
「こんな辺鄙なとこまで、わざわざ遊びになんか来ないよ。それに、これは俺の副官なの。アレが巧いだけじゃないからね」
「へえ。巧いのか?」
 興味津々といった顔。
 べつに、いまさらなにを言われても気にはならない。御影宿舎では四六時中、この類の視線にさらされていたのだから。
「駄目だよ。お近づきのしるしに一発なんて」
「んな固いこと言うなよ」
「ぜったい、ダメ」
 金色の目に冷気が宿る。相手もそれを察したらしい。小さく舌打ちして、横を向いた。
「ま、仕方ねえか。今回はこっちの方が立場弱いしな」
「そーゆーこと」
 にんまりと、焔は笑った。褐色の肌の大男は、近侍に目で何事かを命じた。真と同い年ぐらいのその青年は、万事心得ている様子で酒席の用意を始めた。
「とりあえず、飲もうや。細かい話はあしたってことで」
「ヘンなもん、入れてないだろうね」
 提子を手にして、焔。相手は露骨に嫌な顔をした。
「俺をだれだと思ってる」
「『陽家の玄武』……だっけ? 仰々しいお名前で」
 陽家。
 たしか、槐の国の建国当時からある名家のひとつだ。
 かつて槐の国には、細作を束ねる黎家、医術や薬方に詳しい夕(せき)家、武門の誉れ高い陽家、商才に長けた明家、伎芸に秀でた香家、さらには歴史から天文学まで多くの学者を輩出した鑑家といった名家があった。それらは「六家」と称され、宗の国が侵攻してくるまでは、まつりごとの中枢を担っていたのだ。
「でもさー。それ、あんまり大きな声で言わない方がいいんじゃないの?」
「わかってらあ。『六家』なんざ、いまは百害あって一利なしだからな」
 宗の国の支配下にある限り。
 しかし独立がなれば、「六家」の名は大きな武器になる。長きに渡って、他国に搾取されてきた槐の国の民が「六家」に寄せる期待は相当なものだろうから。
「へえ。見かけによらず、アタマいいんだ」
「おまえと同じぐらいにはな」
 どちらも負けていない。
 緊迫した空気の中で交わされる軽口。平気な顔をしているのは、焔が「玄武」と呼んだ男の近侍だけで、あとは皆、遠巻きにしている。
 しばらくの沈黙ののち、玄武は焔の杯を取った。
「注げよ」
「俺が?」
「毒見してやるって言ってんだ。ありがたく思え」
「そりゃ、ごていねいに、どうも」
 焔がことさらへりくだった口調でそう言って、杯を満たした。玄武はそれを一気に飲み干し、
「そっちの番だ」
「やだね。固めの杯じゃあるまいし」
「和は、俺たちと契約したはずだぞ」
「したよー。だから、俺が来たんでしょ」
「だったら……」
「おんなじ杯で飲むのは嫌だって言ったんだよ」
 焔は玄武の杯を取った。
 杯を交換して、酒を酌み交わす。それが槐の国においては、同じ杯を使うよりも重い意味があることを焔は知っていたのだろうか。
 玄武はまじまじと焔を見ていたが、やがて提子に手を伸ばした。
 杯に酒が注がれる。焔はそれをゆっくりと飲んだ。周りの緊張がほぐれていくのが、ありありとわかった。
「んじゃ、あとは適当にやってくれ。てめえらも、今日は飲んでいいぞー」
 どうやら、無礼講になったらしい。その場にいた三十人ばかりの者たちも、各々の杯を手にする。控えの間に用意してあったのか、次々と料理も運ばれてきた。
「仕事の前に宴会しようっての? やっぱり、あんたらって緊張感ないねえ」
「お互いさまだ」
 言いながら、玄武は真に杯を差し出した。
「まあ、一杯」
「駄目だって言ったでしょ」
 焔がさえぎる。
「酒ぐらい、いいじゃねえか」
「ダーメ」
 取り付く島もない。せっかく和んでいた空気が、またぴりぴりしたものになりはじめた。
 まずいな。真は焔の側に寄った。
「勝手ながら、下がらせていただいてもよろしいでしょうか」
 自分はここにいない方がいい。食事なら、あとで厨に取りにいってもいいのだから。焔は、ちらりとこちらに視線を投げた。ほんの少し、驚いたような顔で。
「いいよ」
 短い答え。真は一礼して、広間を辞した。


 広間とは別棟の、いちばん奥まったところに真たちの房はあった。いつまでいることになるかは、まだわからないが。
 生きて戻ることはできまい。きっとここが、終の住処となる。仮の宿りであっても。
 荷物を解き、牀を整える。あの男のことだ。たとえ余所の砦でも、欲求が起これば事に及ぶだろう。そのために、広間で自分のことを話のタネにしたのだ。
 ああ、でも。
 ふと、真は思った。
『これは俺の副官なの』
 あのときの焔の声には、遊びの部分がなかった。そのあとに、冗談まじりの台詞を続けてはいたが。
 気のせいだろうか。単なる思い込みだろうか。自分が、部下としてもあの男に認められているなどと。
『アンタは犬以下だ』
『気に入ったオモチャは長ーく使う主義なのよ』
 様々な言葉が思い出される。
 真は頭を振った。期待するのはよそう。それよりも、いま自分にできることを考えよう。この砦での仕事が円滑に進むように。
「よろしゅうございますか」
 扉を叩く音とともに、声がした。細い、女のような声だ。
 首をかしげつつ、戸口に向かう。念のために小柄を構え、誰何した。
「どなたです」
「玄武さまの側仕えをいたしております、珪秋(けいしゅう)と申します」
 先刻、酒席の用意をしていた近侍か。
 とりあえず小柄はそのままで、扉を開ける。
「お邪魔いたします」
 目の前の小柄に驚いた様子も見せず、青年は言った。