炎の淵より  by 近衛 遼




其の七

 部屋に入るなり、焔は結界を張った。
 東館の四階には余人はいない。御影長の帥でさえ、いままでここに上がってきたことはない。それなのに。
 どうして、この男は結界を張るのだろう。ここは自分の部屋だ。いちばん、安心な場所のはずなのに。
 違うのだろうか。この男は、ここでは安らげないのだろうか。
 埒もない考えが浮かぶ。御影一の手練れ。帥や、さらには御門さえも動かすほどの男が……。
「来て」
 寝台に座して、言う。真は歩を進めた。
「脱いで」
 予想通りの言葉。いつものように、衣服を床に落としていく。
 先刻の問いに対する答えはなかった。これが終わってからかな。いや、答えないかもしれない。「モノ」の言い草など、この男にとってはどうでもいいことだろうから。
「ほしい?」
 問い。
 ああ。ほしいよ。人として、まっとうできる最期が。
 不思議だった。きっとこのあと、自分はいつものようにこの男に支配され、粉々に砕かれる。それでも、かまわないと思った。いまの自分は「モノ」だから。
 好きなだけ、壊せばいい。幼い子供が、せっかく作った砂の山を踏み潰すように。
 自分は砂の山だ。あなたが作りたいときに作られて、潰したいときに潰される。
 でもね。砂は、どんな形になったって、砂なんだよ。ほかのものには決してならない。どんなに細かく、砕いたとしても。
 一瞬、焔は眉をひそめた。それは怒りや不満といったものではなく、戸惑いや不安に似ていた。
「……ほしい?」
 答えを求めるように、焔は訊いた。
「はい」
 それは、本心だった。


 命じられるままに、真はその行為を行なった。すでに主張しはじめている場所に舌を這わす。
 これでいいのだろうか。それとも……。
 頭を押さえられた。
 もっと、深く。無言の要求に応える。
 喉の奥までそれを導く。あごを動かす。淫靡な音が漏れた。
「……巧いねえ」
 真の髪をまさぐりながら、焔は言った。
「だれの仕込みなんだか」
 仕込まれてなどいない。これで済むなら、こっちの方がましだと思ったことがあるだけだ。
 過去のあれこれを思い出す。思い出したくもないことだったが、それがこんなところで役に立つなんて。
「ほーんと、巧すぎるよ。このまま、いっちゃいそう」
 角度を変える。うっかりしたら、気管に入ってしまうから。
「……ふーん」
 声とともに、髪を掴まれた。ぐっと上に引かれる。
「いい感じになってきたから……」
 次の要求が出された。そろそろと寝台の上に進む。
 ほしい、と、自分は言った。もちろん焔の言う意味とは違うが、いまはその言葉通りにしなくては。
 ひざを開く。自分が育てたその部分に向けて、真は腰を落とした。
「は……っ……ん…」
 たいして抵抗はなかった。が、それゆえに、一気に奥まで届く。
「なーんか、がっついてるねえ」
 からかうような、でも楽しげな声。
 両脇を固定された。じりじりと、中が疼く。
「動きたくなった?」
 わかっているくせに。体はもう、この男にすっかり馴らされてしまったから。
「それじゃ」
 ことさら激しく、腰を揺らされる。真は焔の肩にしがみついた。
「んっ……ん……ああっ!」
 抑えられなかった。抑える必要もなかった。
 きっと、これが答え。
 この男は、自分を前線に連れていくだろう。たいして力のない者であっても。
 暗殺部隊が槐の国に派遣されるのは、来月のはじめぐらいだろうか。槐の国の情勢や地理を、もっと細かく調べておかなくては。
 体は極限にまで達していた。焔の激情を身の内に受けながら、真の頭は妙に冴えていた。


 このところ、自由時間が増えた。
 訓練はあいかわらずだったし、夜も気を失うまで責められているが、食事の前後やちょっとした休憩時間などは、真はひとりでいられるようになった。
 以前も、三階の自室にまで焔が来るようなことはなかったのだが、どこに行ってもその「気」は執拗に付いて回っていて、心の休まる暇がなかったのだ。
 それが、最近は焔の「気」がまったく感じられなくなることがあって、心身ともに緊張をほぐすことができた。
 焔はここ数日、帥や御影の上層部の者たちと打ち合わせを行なっている。前回の台の国の任務の際、焔は独断で総攻撃を行なった。それをよく思っていない者が、今回の任務に焔を参入させることに難色を示しているらしい。
 真としては、あの判断は正しかったと思っていた。
 現場のことは、現場の者にしかわからない。だから、いちいち上の判断を仰いでいては間に合わないこともある。ただ、あの場合は上層部や御門にではなく、砦に潜入していた間者たちに事前に連絡をしてくれればよかったとは思うが。
 あの男なら、それも甘いと言うだろう。間者ならば、いついかなるときも、あらゆる場合を想定して動くべきだ、と。
 そんな真似ができるのは、ごく一部のつわものだけだ。が、それをあの男に言っても始まらない。
 力のある者には、ない者の気持ちはわからない。そもそも、人が人を理解することなど、できるはずもないのだ。人は決して他者にはなれない。もし理解できるとすれば、その人間はふたり分の人生を背負うことになる。そんなことは、常人には不可能だ。
 だから、想像するしかない。少しでも相手を知りたいと思う心の動き。それがきっと、やさしさであったり思い遣りであったりするのだろう。
 かつて周は、自分に関わる人々に近づこうとした。傷ついても、それを恐れることなく。
 じつのところ、若くして王の側近となった周に反感をいだく者は多かった。真の父は、時に盾となってその攻撃を防ごうとしたが、周はそれをきっぱりと断った。
『私はそんなにヤワじゃない』
 毅然とした口調。
『それに、これしきのことで潰れるようなら、七代さまのおそばにいる資格などない』
 自分にとことん厳しい人だった。そして、他人にやさしい人だった。
 父が命を預けたのも、頷ける。そして暁が、あれほどまでに愛したのも。
「あーあ、もう、年寄りの話はうざったいよ」
 書庫の窓から、焔が入ってきた。
「結果オーライだってこと、わかんないのかねえ」
 ぶつぶつと言いつつ、卓の横に来る。
「部屋にいないと思ったら、またお勉強?」
「はい」
「おこがましいって言っただろ」
「はい」
 なにを言われても、たいして気にはならない。いつぞやのように、このままここで事を始められたとしても、自分はそれを受け入れるだろう。
 不思議な気分だ。妙に穏やかで。焔は目を丸くしている。
「アンタって……ほんとに面白いねえ」
 何度目になるかわからない言葉を口にして、焔はふたたび窓から出ていった。
 さわさわと風が吹いている。午後の日差しが、不似合いなほどに明るかった。