炎の淵より  by 近衛 遼




其の五

 次の仕事。
 それがいつからなのか、焔は明言しなかった。御影長の帥も、真にはなにも告げない。
 御影内において、真は焔の従属物であった。もしかしたら、名簿にさえ載っていないのかもしれない。自分がここに来たのは、御門と焔のごく個人的な取り引きに過ぎなかったから。
「じいさんが、めずらしくボーナスくれるって言うからさあ。カネはいらないから、アンタをくれって言ったのよ」
 深い部分を嬲りながら、焔は言った。
「そしたら、じいさん、苦虫噛み潰したみたいな顔してさあ」
 くつくつと、笑う。
「よっぽどアンタにご執心なのかなーって思ってね。ますます、ほしくなっちゃったわけ」
 脚を抱えて揺らす。真はあごを上げて、喘いだ。
「だーめだよ。まだ、いっちゃ。先にいったら……わかってるね」
 条件反射のように頷く。ああ。わかっているとも。それでなくとも、とんでもないことになっているんだ。このごろは、羞恥を感じる余裕すらなくなってしまったが。
 御影本部に配属されてから、半月あまり。昼も夜も、自分はこの男に支配されている。
「苦しそうだねえ」
 昼間、術の稽古の際についた傷の上を、焔の舌が通っていく。ちりちりとした痛みと、それとはべつの感覚。こらえきれずに、声を漏らした。
「はいはい、よくできましたー。ガマンしてる顔もいいけど、たまには素直にならなくちゃねえ」
 ふいに、腕を抜かれた。上体が傾ぐ。
「ほらほら。しっかりしてよ。……いきたいんでしょ」
 にやり。端正な面に、妖しい笑みが浮かぶ。
「特別に、先にいっても許してあげるよ。だから……」
 自分で、ね。
 薄い唇が、命じた。


 乱れるしかなかった。もう、壊れるしか。
 狂ってしまえたら、どんな楽だろう。それこそ、男を求ぐ淫売になりはてて。
 十分だよな。こんなことができるんだから。きっと、この男でなくても自分の体は反応するのだろう。だいたい、この男以上にひどい扱いをするやつは、そうはいないだろうし。
 欲望を導く。奥へ、奥へと。それに合わせて、自らの熱も育てて。
「ふ……う………んん…っ!」
 息が上がる。意識がだんだんと虚ろになっていく。焼け付くような感覚が腰から背中に突き抜ける。
 何度目かの衝撃ののち、視界は暗転した。


 真は夢を見ていた。
 季節は早春。ほんの少し冷たい風が、芽吹いたばかりの木々のあいだを通りすぎていく。
『ここで、待っていなさい。私は周と話があるから』
 父は、真の頭をなでてそう言った。
 色とりどりの梅の木。鳥の鳴き声が聞こえる。うららかな日差しに誘われて、真は庭の中を歩き回った。
『だれか、いる』
 四阿の中。自分と同じぐらいの年の少年が、ひざを抱えてすわっていた。
『あの……』
 声をかけようとしたとき、少年の姿が消えた。鳥の声がぴたりと止まる。
『え?』
 一瞬ののち、真の首筋には小柄の切っ先が宛てられていた。
『あんた、だれ』
 やや高い、澄んだ声。

 ああ、あれは、暁の声だ。そしてあの場所は、都にあった昏家の別邸。

 暁は周を慕っていた。ほかにはなにもいらないと言った。周だけが、すべてだと。
 哀しかった。たったひとつの愛しか知らぬ暁が。
『あの人だけじゃないよ』
 あるとき、真は言った。
『暁のこと、思ってくれる人はほかにもいる』
『いないよ』
『どうして』
『いままで、ずっといなかったもん』
『いつか、きっと現れるよ』
『いつかなんて、いらない。オレはいまだけでいいの』
『いまだって、いるよ』
『どこに』
『ここに』
 必死に言った。迷いはなかった。ここにいるよ。おれだって、暁のことを思っている。
 切れ長の眼が不思議そうにこちらを見ていた。言葉の意味を理解しかねているかのように。
 ほんとだよ。だから……。
『暁』
 名前を呼んだ。暁はあいかわらず首をかしげたままだ。
『暁』
 幼い暁が遠ざかっていく。
 手をのばしたが、それはついに届くことはなかった。


 朝の光が部屋に差し込んでいる。きらきらと、いやになるほど明るい。
 あのまま、失神してしまったのか。結局はいつものように、あの男のいいように扱われて。
「あら、起きたの」
 頭上から声がした。焔は、もうすでに着替えを済ませている。
「……つっても、起き上がれるかねえ」
 長い指が、あごにかかった。
「最後の方、だいぶがんばっちゃったみたいだし」
 そう仕向けたのは、そっちじゃないか。顔をそむけて、唇を噛む。
「朝飯ヌキでも、スケジュールは変わらないからね」
「……わかっています」
 午前中は体術、午後は結界術。それがこの半月の日課だった。むろん、夜もほぼ毎日、相手をしている。
 すでに限界は越えていた。それでも、拒むことはできない。真は歯を食いしばって、上体を起こした。
「無理しちゃって。ほーんと、強情だね」
 焔はふたたび、真のあごを掴んだ。
「ところでさあ」
 わずかに、声音が変わる。
「暁って、だれよ」
「え……」
 一瞬、頭の中が真っ白になった。なぜ、この男がそんなことを訊くんだ。暁と同じ顔で。暁と同じ唇で。
「うわごとみたいに呼んでたよ。もしかして、アンタのコレ?」
 親指を突き出して、にんまりと笑う。
「いい具合のカラダだと思ってたけど、やーっぱりオトコがいたんだ。でも……」
 冷たい「気」が声に乗る。
「二度とそいつには会えないよ」
 すっと手を引き、焔は寝台を見下ろした。
「アンタは死ぬまで、俺のもんだから」
 断言して、出ていく。真は大きく息をついた。
 死ぬまで、か。そう先のことではないだろうな。このままの状態が続くのならば。
 どうせなら、いくさばで死にたかった。たとえこの身が四散したとしても。
 そういえば、宗の国の仕事はいつからだろう。本当に同行できるのならば、望みはある。最期をまっとうできる可能性が。
 真は立ち上がった。ぼんやりしてはいられない。
 死ぬために。
 おのれの思う通りに死ぬために、いま、生きなければ。
 痛みをこらえて身仕度を整える。朝餉を摂るべく、真は食堂へと向かった。