炎の淵より  by 近衛 遼




其の四

 夕餉を摂りに食堂へ降りていくだけの力は、残っていなかった。
 それでも、このままここにいるわけにはいかない。あの男が戻ってくるまでに、自室に引き上げなければ。ぐずぐずしていて、朝まで責められてはたまらない。
 ぼろぼろになった服を拾う。下衣を着けて、寝台から降りた。
 こんな格好をだれかに見られるのは嫌だ。三階には、自分のほかに何人かいるはずだが、いまなら皆、食堂に行っているだろう。
 こわばった体を少しずつほぐす。一歩進むごとに腰に響いたが、そんなことはかまっていられない。
 自室に戻れば、水と携帯食料はある。念のためにと、最前線並みの装備をしてきてよかった。薬も多めに持ってきている。
 覚悟はしていたが、ひどいものだ。
『アンタは犬以下だ』
 凍土のような台詞。
 だったら、あなたはどうなんだ。その犬以下のやつを抱いているくせに。
 暁によく似た男。すらりとしたきれいな横顔は、記憶にある暁と同じものなのに。
 やはり、違うのだろうか。自分が名乗っても、なんの反応もなかった。それを「呪」の道具に使っただけで。
 ばかだよな。
 こんな目に遭っても、どこかで救いを求めている。信じたいと思っている。現実は、あまりにも過酷で。
 なんとか、だれにも見られずに自室に辿り着いた。薬を飲んで、横になる。
 本当は体を拭きたかったが、手足が鉛のように重くて、うまく動かせない。仕方なく、そのまま毛布をかぶった。
 身体的かつ精神的な疲労は予想をはるかに上回っていた。眠ろう。真は睡魔に身を委ねた。


 翌朝。
 朝餉の席で真を待っていたのは、きのうよりもさらに粘着質の、不快きわまりない視線だった。理由はわかっている。あのあとのことを、皆、それぞれに想像しているのだろう。夕餉を摂ることもできなかったのだから。
 だれもなにも言わない。それでも、いや、だからこそ窒息しそうなほど苦しかった。
 末席にすわる。なにか食べなくては。できるだけ普通にしていることが、自分にできる唯一の抵抗だ。
「あれえ、ずいぶん早いじゃないの」
 戸口から、声。顔を上げるまでもない。焔だ。
「朝飯もパスかと思ってたのに」
 ずかずかと椅子の横まで来る。ひょいと漬物をつまみ、
「刺激物はやめておいた方がいいよー」
 言いながら、するりと腰に手を回す。周囲から含み笑いが漏れた。
「それから、あんまり食べ過ぎないでね。今日はこのあと、体術の稽古をするから」
「体術?」
 どんな「体術」やら。そんな陰口が聞こえてきそうだ。
「そ。アンタ、ここで生き残るの難しそうだからね。あんまり早くくたばっちゃったら、俺が面白くないんだよ。せっかくじいさんにゴリ押ししたのにさー。俺、気に入ったオモチャは長ーく使う主義なのよ」
 犬の次は、オモチャか。たしかに「犬以下」だな。ただの「モノ」でしかないのだから。
「とりあえず、ひと通りのことは覚えてもらわないとね。メシが終わったら、すぐ始めるよ」
 言い捨てて、上座に向かう。御影長の帥が何事か注意している。焔は横を向いて、うそぶいていた。
 とてもじゃないが、「食べ過ぎ」るほど食べられる状態ではない。それぐらいは、あの男もわかっているだろうに。
 真は半ば押し込むようにして、汁ものと麦飯を口に入れた。


 東門の近くにある演習場には、余人はいなかった。
「まずは基本ねー」
 言うなり、急所を狙って手刀が飛んできた。速い。肉眼ではほとんど見えない。風を切る音を読んで、かろうじてかわす。
「甘いよ」
 よけたところに、二発目。
「……っ!」
 ななめから鳩尾に入った。上体を折って、あとずさる。
「上もガラ空きだね」
 まずい。首をやられたら終わりだ。両腕で防御した。鈍い音。
「あれえ、折れちゃったかな」
 のほほんとした声。
「駄目だよー。若いのに骨粗鬆症なんて。ちゃんとカルシウム摂らなきゃ」
 完全にからかわれている。なにが体術の稽古だ。これじゃ、ただのいじめじゃないか。猫が弱ったネズミをいたぶるのと大差ない。
 ゆっくりと腕を下ろす。大丈夫だ。折れてはいない。もしかしたら、ひびぐらいは入っているかもしれないが。
「まあ、目はいいみたいだね」
 にんまりと笑って、焔は言った。
「けど、動きはド素人だよ」
 だれのせいだと思っている。万全の体調なら、いま少しましな対応ができるのに。
「またそんな顔して。ほーんと、進歩がないねえ」
 嘲るような声とともに、拳が降ってきた。必死にそれを受ける。
 ぎりぎりのところを狙ってくる。次から次へと。逃げるばかりでなにもできない自分。力の差を痛感する。
 それにしても、どうしてこの男はこんなことをするのだろう。稽古という名目で遊んでいるのはわかるが、自分をいたぶるつもりなら、あの方法だけで十分なはずだ。
「余計なこと、考えないのよ」
 がっしりと喉を掴まれた。
「今度の仕事に、アンタも連れていくからね」
 仕事? 真は目を見開いた。
 自分の仕事は、この男の慰みものになることだと思っていたから。
「宗のやつらはクセモノが多いからねえ。いつのまにか取り囲まれてジ・エンド、なーんてことにならないようにしてよ」
 ということは、次の任務は宗の国。いまの情勢からすれば、槐の国の独立運動に関する任務だろうか。
 宗の国の属国である槐の国では、この数年、自治を求めて局地的な武力闘争が続いている。諜報局ではこの運動を支援して、宗の国の戦力を削ぐ作戦をたてていた。
「目だけでなく、頭もいいのにねえ」
 焔は真の体を地面に叩き付けた。
「カラダも、こっちの方はいいんだけど」
 手が下肢のあいだにのびる。
「んっ……!」
 びくりと全身が固まった。
「ほーら。もう脚、開いてる」
 うるさい。こうしなければ、余計に負担がかかるじゃないか。きのうの今日だぞ。ダメージは、できるだけ少なくしたい。
 どうせ、時間や場所を選ぶような男ではあるまい。したいときに、したいようにする。最初から、そうだったんだから。
「……ま、稽古の続きは昼からってことで」
 ゆっくりと、男がのしかかってきた。
 広い演習場の中。自分たちを隠すものはなにもない。こういうときこそ結界を張ればいいのに、焔はそれをしなかった。
 わざとだな。
 真は顔をそむけた。白日のもと、下肢が顕になる。昨日の後遺症が歴然と残るその場所に、焔は楔を打ち込んだ。