炎の淵より  by 近衛 遼




其の二十九

 長く続く回廊。それに囲まれた中庭。ほとんど飾りのない壁や柱。
 真は注意深くあたりを観察した。室内は年代物の調度品がしつらえてあったが、外はそれとは対照的にいかにも実用的な造りになっている。余計なものがなにもない。ある種、無機的な感じすらする。
「あ……」
 庭の中央に建つ碑。あれには見覚えがある。
 思い出した。御影研究所だ。ここは。
 都の学び舎にいたころ、適正検査を受けるために一度だけ来たことがある。そのあと、諜報局に配属が決まったのだ。
 真は大きく深呼吸をして、暁の「気」を探した。どんなに小さくても弱くても、探し出せる自信はあった。最初のとき、あの最悪の状況でも自分は「焔」の中に「暁」の存在を感じたのだから。
 ゆっくりと視線を巡らす。かすかな反応。それを辿って歩を進める。
 真の部屋から中庭をはさんで対角線上にある部屋に、暁はいた。薄い幕の向こうに白い面(おもて)が見える。その顔は、やはり懐かしい顔だった。
 そっと幕を開けて、枕辺に近づく。よく見なければ息をしているのもわからないほどに、暁は昏々と眠り続けていた。
 いまだ意識は戻らないと御門は言った。でも、生きているのだ。暁はまだ、生きている。
 暁。暁。
 ひたすらに名を呼んだ。強く強く。何度も何度も。
 祈りにも似た時間が流れた。どれぐらい、そうしていただろう。果てしなく長いようにも思えたが、実際はほんの短いあいだだったかもしれない。
 ぴくり、と、暁の唇が震えた。と同時に、両の眼がうっすらと開く。
 光を吸った金の瞳。それが頼りなげに揺らめいている。
「暁……」
「……」
 薄く形のいい唇が、なにかを告げようとして動いた。音にはならなかったけれど。
『よかった』
 そう言っているように見えた。
 ああ。そうだな。本当によかった。
 おまえが生きていて。おれが生きていて。
 視界が潤んでいく。熱いものが頬を伝って落ちていく。真ははじめて、心のままに泣いた。


 涙がそれまでの日々を浄化していく。なにもかもが、あるべくしてあったのだと思えるほどに。
「ど……して……」
 耳元で、かすれた声がした。はっとして顔を上げる。
「暁?」
「どうして、泣くんだよ」
 乾いた唇で問う。
「俺は……俺には……あんたに泣いてもらう資格なんかないのに」
「まだ、そんなこと……」
 なんだか、可笑しくなった。
 おまえは「暁」を取り戻した。「焔」であったときのことも、全部その身に引き受けた。それでいいじゃないか。もう十分だ。
 天角の砦で、おまえはたったひとりで「呪」を封じられた者たちと対峙した。それがどれほど危険か承知の上で。
 炎の中で力を暴走させたのは、致し方なかったと思う。「意識写し」をした時点で、暁は「気」の大半を使ってしまったはずなのだ。それなのに、自分に「気」を分けてくれた。
 たぶん、あのあとコントロールが利かなくなったのだろう。もしかしたら、そうなることがわかっていたから、自分を玄武のもとへ遣ったのかもしれない。
 天角で異状が起きていると知れば、天睛の部隊はむやみに踏み込まない。暁はそう考えたのだ。
 暁の誤算は、天睛の者たちが「傀儡」の術を知っていたこと。そして暁が考えていたより、玄武が義を重んじる男であったということだ。配下の術者に、おのが命を賭けてまで「傀儡」を廃するよう命じたのだから。
 むろん、単に自分たちに火の粉が降りかかるのを怖れただけという見方もできるが、珪秋までもが天角に赴いたという点を鑑みれば、玄武の覚悟のほどが窺える。
 香珪秋。「六家」と称される槐の国の名家の血をひく、一級の策士。玄武にとっては、おそらく掌中の珠のような存在であるはずだから。
 玄武に迷いはなかった。もちろん、珪秋にも。
「暁」
 囁くように、真は言った。
「おれの意識を『視た』だろう?」
 金色の双眸をしっかと見据える。
 おれは、ずっとおまえを想っていた。おまえが何者であっても。あのときの約束のままに。
 いつかなんていらないと、おまえは言った。いまだけでいいと。けれどその「いま」は、過去も未来もすべてを繋いでいるのだ。
「………」
 ふたたび、暁の唇がわなないた。
 そろそろと手がのびてくる。真の首に、震える腕を巻き付ける。
『ごめんなさい』
 嗚咽とともに、まっすぐな心が染みてきた。
 ごめんなさい。ごめんなさい。
 くりかえし、くりかえし、その響きが胸に届く。
「真……ごめん……」
 途切れ途切れの声。ばかだな。そんなに何度も謝るなよ。
 真は暁を抱きしめた。そして。
 最後に伝えようと思っていた言葉を、唇に乗せた。


 やっと言えた。
 なにも隠すものはない。もうごまかさなくていい。
 おまえを乞う気持ちを、思うままに口にすることができる。
 唇が触れ合った。ゆるやかに感情が交叉する。
 それは、ふたりがふたりとして、互いを求め合う口付けだった。