炎の淵より  by 近衛 遼




其の三十

 狭い隧道の中で炎と爆風に晒されたというのに、真も暁も一命を取り留めた。否、「取り留めた」だけではなく、四肢の欠損もなく神経系の障害も残らなかった。これはほとんど奇跡と言えよう。
「おそらく、結界の相乗効果が生まれたんでしょうねえ」
 御影研究所の一室で、この一カ月あまりの検査結果と以前のデータを見比べて、鴫は言った。
「あなたがたの結界の波長は、もともとよく似ているんですよ。だから、同時に同方向に重なると、弾みがついてますます強くなる」
 今回の場合は、それに加えて暁があらかじめ真にさまざまな結界術を教えていたことと、直前に「気」を与えていたことが同調率を引き上げたらしい。
「おかげで……といってはなんですが、じつに有意義な仮説を立てることができました」
 同じ波長を持つ者同士が組んで事に当たれば、任務の成功率が格段に上がるであろうという仮説。これまで「御影」は個人の技量を最優先にしてきたが、今後は少し方向性が変わるかもしれない。
 あのとき、自らが不利になると知りつつも、暁は真に「気」を分けた。あれが、結果的には自分たちの命を救うことに繋がったのだ。
「とりあえず、きのうの検査の結果、おふたかたともこれ以上の治療は必要なしと判断されましたので、明日にでもここを出ていただいて結構です」
 鴫はなにやら書類にサインしながら、語を繋いだ。
「ただし、現場に復帰するのは御影長の指示を仰いでからにしてくださいね。私はあくまでも医学的見地から退院を許可するだけで、実務に関しては権限を持っておりませんので」
 淡々と述べて、鴫は真と暁に書類を手渡した。診断書である。
「お世話になりました」
 真はきっちりと頭を下げた。暁は無言のまま書類を受け取ると、さっさと部屋を出ていった。
 こういうところは、「焔」も「暁」も変わらないな。
 真は心の中で苦笑しつつ、自分もあとに続いた。


 部屋に戻ると、暁は黙々と私物を整理しはじめた。
 天角の砦で負傷して、すぐにここに搬送されてきたから、たいしたものはない。夜着と下着と上衣。それに洗面道具ぐらいのものだ。
 意識を取り戻した日から、ふたりは同じ部屋で療養していた。鴫をはじめとする研究所の医師たちが、その方が回復が早いと判断したためだ。
 事実、ふたりは周囲が驚くほどのペースで快癒し、先日、様子を見に来た御影長の帥などは、
「焔だけならまだしも、おぬしまでとはな」
 と、目を丸くしていた。
 ちなみに、御影本部では暁はまだ「焔」と呼ばれている。暁本人も、いまさら呼称を変えるのは面倒だと言っているらしく、どうやらこのまま改名しないことになりそうだ。
 真も、呼び名などどうでもいいと思っていた。この男が「暁」の記憶を失っていたときでさえ、どちらでもかまわないと思っていたのだ。いまさらこだわる理由もない。
「これ、もういいの」
 暁は側卓に積んであった歴史書を手にして、言った。真が研究所の書庫から借りてきたものだ。
「ああ。全部読んだ。あとで返しにいくから……」
「行ってくる」
 がさっと抱えて、出ていく。真は小さくため息をついて、自分の荷物を背嚢に詰めた。
 どうも、この二、三日、暁の様子がおかしい。帥が見舞いに来たころからだろうか。言葉数が少なくなって、視線を合わすのを避けるようになった。どこか具合でも悪いのかと思ったが、昨日の検査ではどこも異常は見つからなかった。
 もっとも、暁には常人には量り知れぬなにかがある。
 歴史書によれば、和の国には数十年に一度の割合で金色の眼を持つ豪傑が生まれている。それは銀髪蒼眼の昏一族などとは違い、突発的に現れるものだった。
 まさに突然変異としか言いようがない。その者たちは皆、単独で砦を陥落させるほどの力を持ち、中には辺境の小国を滅ぼして王となった者までいた。もっとも、その王の死後は国は傾き、大国に併合されてしまったが。
 金眼の血は定着しないのだろう。真はそう考えた。
 でも、それでいいのかもしれない。あの爆発的な破壊力を持つ血が固定されてしまったら、それこそ和の国さえも覆すほどの一大勢力になりうるだろうから。
 ひと通りの支度を終えて、真は外に出た。
 日は西に傾いている。薄く流れる赤紫の雲。
 美しい景色だった。もうずいぶん長いあいだ、こんな風景を見ていなかったと思う。
 都にいたころも、任務で各地に赴いているときも、もちろん御影本部に召集されてからも。
 はじめて御影宿舎の東館に入った日。あのとき、窓越しに見た夕焼けは、血の色とも地獄の炎ともつかぬ紅だった。あれから半年あまりが過ぎたが、なんだか何年もたったような気がする。
 がさり。
 背後で草を踏む音がした。
「暁?」
 なにげなく振り向く。金色の双眸を認めた直後。
「……!」
 強い力で腕を引かれ、唇がふさがれた。深い口付けが息を奪っていく。反射的にかぶりを振った。
 鋭い痛み。口の中に鉄の味が広がる。
 そのまま地面に倒れ込んだ。荒々しく衣服が剥がされていく。
 どうしたんだ。これではまるで、最初のころのようじゃないか。
 真は混乱した。混乱した頭で必死に考えた。
 この男がなにを求めているのか。なにを探しているのか。こんなにも必死になって……。
 目を閉じた。力を抜いて体を預ける。心を真っ白にして受け入れる。この男がぶつけてくるものを、全部。
「……あ」
 息を飲む音とともに、暁の動きが止まった。ゆっくりと目を開ける。そこには、泣きそうな顔の暁がいた。
「暁……」
「ごっ……ごめん。俺……」
 ぎこちなく、横に移動する。真は乱れた衣服を直して、起き上がった。暁は視線を落としたままだ。
「ほんとに、ごめん。あんたがいなくなってしまうと思ったら、俺……」
 いなくなる?
 真は首をかしげた。いったい、なんの話をしているのだろう。
「あの、それって……」
「帥が言ってた。ここを出たら、真は都に戻るって。だからもう俺とは会えないんだろ」
「はあ?」
 思わず、素っ頓狂な声を出してしまった。
 なにを勘違いしているんだ。この男は。もしかして、そのせいで様子がおかしかったのか。
「暁」
 深いため息とともに、真は暁の肩をがっしりと掴んだ。
「おれは、諜報局の人間だ」
「知ってるよ」
「このまま御影本部に残ることはできない」
「わかってる」
「だから、七代さまより『御影』の宣旨を賜ってくる」
「え……」
 金色の目が大きく見開かれた。
 この件はすでに御門も承知している。天角の砦での働きと、天睛との連携がうまくいった見返りとして、真は近日中に「御影」を拝命することになっていた。
 天角の主力部隊が一時撤退したことによって、槐の国の独立派はがぜん勢いづいた。当初の予定とはいささか方向が変わってしまったが、玄武にとってはおおいに利となる結果だっただろう。伝え聞いたところによると、珪秋たちも無事であったらしい。
「なにか、問題は?」
「ない!」
 がばり。
 ふたたび、真は地面に押し倒された。夕焼けを映して、ほんの少し朱に染まった黄蘗色の瞳が近づいてくる。
 先刻とはまったく違ったなめらかな動きで、ふたりは互いの肌を感じ合った。


 春の宵は静かに訪れる。
 淡い色の月が東天に上るころ、彼らは新しい約束を交わしていた。


(了)