炎の淵より by 近衛 遼 其の二十七 炎の中を走る。熱さも息苦しさもなにも感じなかった。 「暁!」 真は叫んだ。愛しい者の名を。しかし。 ぎらり。 禍々しいふたつの焔(ほむら)が、真に向けられた。ゆらりと右手が上がる。うっすらと笑みの形を作る唇。それは人のものではなかった。 「………っ!」 真の防御結界は、いとも簡単に破られた。熱風が吹き込む。それとともに、飢えた狼のような牙が喉元に食い込んだ。 ああ。これが、おれに用意された最期なのか。 焼けつくような炎熱と、相反する冷気。 そうだ。いつも感じていた。おまえの中にあるふたつのものを。 どちらもおまえだ。全部おまえだ。おれは、おまえを想っている。いまも昔も、これからも。 「……」 どの名を呼んだのか、自分でもわからなかった。ただ、この男を呼んだ。 ざん、と、なにかが全身を切り刻んだ。自分以外の意識が、細胞のひとつひとつに染み込んでくる。 『いやだ』 『あまね』 『死なないで』 『駄目だ』 『来るな』 『暁』 閃光。爆音。広がる炎。 金の瞳からとめどなく涙が流れる。 最期を迎える者には、かつて最期を迎えた者の思念が見えるのだろうか。 銀の髪と蒼天の瞳。おだやかな笑みを浮かべたあの人が見える。昏周(こん あまね)。あの人が、どんなに心を残して逝ったのか……。 炎の中で、あの人はおのれを滅した。愛しい者を守るために。愛しい者を切り捨てるために。 生きて。生きて。生きて。 哀しいまでの願いが突き刺さる。そんなにも、あの人は暁に生きてほしかったのか。 喉が熱かった。くいこまれた牙は、もう少しでこの身を食いちぎるだろう。 抱きしめた。もう、それしかできなかった。 生きろ。暁。おれを喰らって。 おれは、なにもできなかった。細作として情報を掴むことも、仲間を助けることも。いや、助けるどころか看取ることすら。 おこがましい。人として死のうなどと。それが最後の望みだなどと。 そんなことはもう、どうでもいい。おれが生きていた意味は、おれだけが知っていればいいのだ。 目の前に、紅。 それが血の色なのか、炎の色なのか、真にはわからなかった。 暗い淵の中に、真はいた。ゆらゆらと漂って。 頭上には、かすかな光。あそこから落ちてきたのだろうか。どうやら自分は天上には昇れなかったらしい。まあ、それも当然だ。「任務」の名のもとに多くの人を欺いて、いくつもの命を奪ってきた。業火に焼かれても仕方ない。 妙に安らかだった。薄い闇と静寂。それらに包まれて沈んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと。 その先にあるものはわからない。もしかしたら、なにもないのかもしれない。閉じられた世界と凍った時間。そこに自分は葬られる。 そう納得しようとしたとき。 がくん、と、大きな力が真の意識を揺らした。闇が裂かれていく。静寂が打ち破られる。 『……………!』 だれかの声が聞こえた。心に直に響いてくる。これは……。 『……暁?』 信じられない思いで、目を見開いた。頭上の光がぐるぐると回っている。オーロラのように色を変えて、幾重にも重なって。 強烈な引力だった。闇が弾ける。四方八方に。そして真は、光のカーテンを越えた。 生きている。 目覚めたとき、漠然と思った。 おれはまだ生きている。 体は鉛のように重かった。全身の疼痛と熱。おそらく何か所か骨折もしているのだろう。異様にのどが乾いていた。 側卓の上に水差しと湯呑みが置いてある。真はそろそろと寝返りを打った。痛みをこらえて上体を起こし、なんとか水を口に含む。 どこだろう。ここは。天蓋から下がる幕には桐重ねの文様が染め抜かれている。少なくとも御影本部ではない。久住の城か、あるいは天睛の砦の医療施設だろうか。 「ああ、気がつきましたか」 足元の幕が開いて、白衣を着た男が枕辺にやってきた。年の頃は三十半ば。白髪まじりの髪とずりおちそうな眼鏡のせいで、実際よりも上に見えるのかもしれないが。 「自分の名前、わかります?」 脈をとりながら、男が訊いた。 「はい。遠矢真といいます」 「年齢は」 「二十歳です」 「結構。記憶障害はなさそうですね。熱もたいしたことはないし……食欲はありますか」 「ありませんが、少しなら食べられると思います」 「懸命ですね」 カルテらしきものに何事か書き込む。 「じゃ、あとで食事を持ってきます」 淡々とそう言うと、男は部屋を出ていった。 まいったな。真は小さく息をついた。結局、なにも訊けなかった。ここがどこなのかも、暁や珪秋たちがどうなったのかも。 男には隙がなかった。武人や細作ではないはずなのに、見事に取り付く島がない。 暁が呼んでいると思ったのに。あの闇の底に聞こえてきた声は、間違いなく暁だった。どこにいるのだろう。まさか、もう……。 最悪の事態を想像した。ぞくりと背筋に冷たいものが流れる。じっとしていられなかった。自由にならない体に鞭打って、牀から降りる。 履物はなかった。裸足のままで、そろそろと足を進める。 どれくらいのあいだ、自分は意識を失っていたのだろう。関節が固くなってしまったような気がする。壁に添って出口へ向かおうとしたとき、なんの前触れもなく扉が開いた。長衣の衣擦れの音とともに、塗りの沓が床を鳴らすのが聞こえた。 「え……」 真は、壁を背にしたまま立ちすくんだ。が、数瞬ののち、おのれの不敬に気づいて慌ててひざを折った。全身に痛みが走る。 「それには及ばぬ」 長衣の主は真の肩に手を置いた。 「楽にせよ」 慈愛に満ちた声でそう言ったのは、和王である七代目御門だった。 |