炎の淵より  by 近衛 遼




其の二十五

 事は一刻を争う。
 暁。それぐらい、おまえにわからぬはずはないだろう。おまえはあの人に育てられたんだから。
 昏周(こん あまね)。代々の御門の信任厚い、昏一族の直系。和の国の守護として、生涯をまっとうした男に。
 おまえの真意がどこにあるのかは知る由もないが、これ以上、おまえを「焔」として見ることはできない。
「……いま、なんて言ったの」
 焔は、否、暁はゆっくりと顔を上げた。
「暁」
 ふたたび、真はその名を口にした。
「なによ、それ。アンタのオトコだろ。そんなやつに助けを求めたってムダだよ。ここは天角なんだから」
 まだ、白を切るつもりか。
「いい加減にしろ!」
 叫んだ。
 敵陣の真ん中で大声を上げるなど危険きわまりないとは思ったが、もう抑えられなかった。

 許さない。
 逃がさない。
 おまえは、「焔」であり「暁」なのだ。

 いままでのあれこれが、一瞬のうちに真の脳裡に渦巻いた。
 崩れかけた砦で出会い、助けられ。安堵したのも束の間、ぼろ布のように打ち捨てられた。その後、御影本部に召集されてからは、毎日、息をするのがやっとの状態で。
 人として死ぬことを、生きるよすがにするしかなかった。最期の瞬間を、どれほど待ち望んだことか。
 そんなときに、おれはおまえを見つけてしまった。奥殿の四阿で。自らに忌まわしい枷を与え続けている男が、それまで心の中で大切にしていた、懐かしく愛しい者だと気づいてしまった。
「暁」
 さらにはっきりとした発音で、真は言った。がっしりと二の腕を掴む。
「仮にも『御影』なら、自分がなにをすべきか考えろ」
「真……」
 震える声。大きく開かれた金色の双眸。ひどく狼狽しているのが、瞳の動きでわかった。
 そういえば、おまえに名前を呼ばれるのは久しぶりだな。「呪」の媒介として使われたことはあったけど。
「俺……俺は……」
 子供のような顔。記憶にある暁の顔がすぐ近くにある。
「俺は真を……」
「そんなことを言ってる場合か!」
 皆までは言わせなかった。勢いをつけて起き上がる。そうだとも。そんなことは、いまはどうでもいい。
「行こう。天睛の部隊は、まだ門に入ってないんだろう?」
 暁はこくりと頷いた。なんとも素直だ。先刻までとのギャップに、心の中で苦笑する。
「北側の高台で、様子を見ているようだけど」
 玄武にしては用心深いことだ。おそらく珪秋が進言したのだろう。つねに裏の裏を読むような男だから。
 なんにしても、ありがたい。急ぎ玄武たちと合流しなくては。そう考えたとき。
 ドォォ……ン。砦の中ほどで、なにやら大きな音がした。地下に続く通路の入り口から、もうもうと煙が上がっている。
「なんだ、あれは」
「……『呪』だ」
 ぼそりと、暁が言った。
「捕虜たちに封じられていた『呪』が発動した」
「そんな……」
「やつらを表に出したら厄介だ。俺は地下に行く。あんたは玄武に、もうしばらく砦の外にいるように言ってきて」
 暁はすばやく立ち上がった。あっというまに、建物の中へと消えていく。その背を見送ったのち、真は衣服の襟元を直して北東の門に向かった。


 外から砦の中へ入るときはかなり複雑な印を組まねばならなかったが、出るときはなんの障害もなかった。物見矢倉にいた者たちは、武器庫の爆発のあと、中央の建物に引き上げてしまったらしい。真はだれに見咎められることもなく、外に出た。
 砦全体を覆っている結界を解除してしまえば、ここを占拠するのは容易だ。なにしろ、砦を与っていた者たちはもういない。わずかばかりの兵を残して、自分たちはさっさと撤退してしまったのだ。
 彼らの言うところの「置き土産」。いわゆるトラップは、地下牢にいる者のことだったのか。暁はあの者たちを始末すると言っていたが、できれば一人でも助けたい。自分にはそんな力はないけれど。
「何者かっ!」
 北側の高台にのぼったところで、両側から誰何された。天睛の砦の者たちだ。
「玄武どのと杯を交わしたる者の近侍にございます。あるじの命によりまかりこしました。急ぎお取り次ぎあれ!」
 「杯を交わした」という言葉が効いたのか、一人がすぐに玄武のもとに走った。もう一人は真の横にぴったりと付いている。万一のことを考えているのだろう。さすがに玄武の部下だ。こちらの言葉を鵜呑みにはしない。
 しばらくして、人垣の向こうから大柄な人影が近づいてきた。
「おう、なんだ。おまえさんか」
 特徴のある濁声。天睛の砦の長、玄武である。すぐうしろには、珪秋の姿も見えた。
「こりゃ、だいぶ厄介なことになってんだな」
「は?」
 まだなにも報告していない。真は眉をひそめた。
「そんな顔しなさんな。あの焔が、おまえさんひとりを俺んとこに寄越すなんざ、よっぽどヤバイことになってんだろ」
 玄武の大きな手が真の肩を掴んだ。
「このまま、おまえさんをいただいちまうこともできるんだからな」
 いかにも、この男らしい言い草だ。実際、過去にはそういったこともやってきているのだろう。たとえいくさばであろうが、気に入った者を侍らせて。
「遠矢どの」
 横から、珪秋が口をはさんだ。
「天角の内情は、いかに」
 ことさら冷たい口調だった。表向きは、自分たちは対立していることになっている。
「御身に言うべきはなにもない」
 固い声でぴしゃりと返した。
「玄武どの」
 あらためて玄武に向き直る。
「なんだ」
 玄武は手を引いた。冗談を言っている場合ではないと再認識したのかもしれない。
「砦を与る者たちは、すでに落ちました。残っているのは外回りの者のみと思われます」
「へえ。そりゃ結構なことじゃねえか。で?」
「ただ、宗の術者が捕虜たちになんらかの『呪』をかけた模様で、いましばらく天睛の方々にはここに留まっていただきたく……」
「宗の『呪』だと?」
 玄武の声音が変わった。あたりに緊張が走る。
「なんで、そんなことがわかったんだ」
「それは……」
 暁が「意識写し」をしたことや、先刻、その「呪」が発動したらしいということなどを話す。玄武の顔が見る見る険しくなった。
「おまえさん、『捕虜たち』って言ったよな。何人だ」
「はっきりとはわかりませんが、二十人は下らないかと」
「珪秋!」
 振り向きざまに、玄武は叫んだ。
「は」
「解術の得意なやつを選んで砦に入れろ。死んでも『呪』を外に出すな!」
「御意」
 一礼して、珪秋が下がる。真はなにが起こったのか、わからずにいた。
「玄武どの、いったい……」
「おまえさん、よく無事だったよなあ」
 しみじみと、玄武。
「その『呪』ってのは、たぶん『傀儡(くぐつ)』だ」
「傀儡?」
 耳慣れないその術の名。玄武はそれについて、説明を始めた。