炎の淵より  by 近衛 遼




其の二十二

 一瞬、自分がどこに降りたのかわからなかった。
 もしかして、結界に跳ね返されてしまったのだろうか。それにしてはなんの衝撃もなかったし、物見の兵に気取られた様子もない。鬱蒼とした立木のあいだで息をこらし、真はあたりの気配を伺った。
 確実に、先刻までいた場所とは空気が違う。風の流れは緩慢だし、匂いも人工的なものが混じっている。砦の中であることは、間違いなさそうだった。
 天角は比較的規模の小さい砦である。もっともそれは外から見える部分だけで、地下に相当広い空間があるのではないかというのが、もっぱらの噂だった。
 今回の槐の国との作戦において、和の国が積極的に間者を送り込んだのは、そんな天角の内情を探るいい機会でもあったからだ。むろん槐の国の独立が成れば、それはそれで和の国としても利はあるが、よしんば頓挫したとしても情報が拾えるだけで、今後には益となる。
 だから。
 真は慎重に歩を進めながら、考えた。強行手段など、御門が望んでいるはずはないのだ。
 天角での工作が失敗したのなら、全面撤退。あるいは久住に兵を集結させて、周辺の村々の警護にあたる。それによって、和の国は久住周辺の民の信頼を確固たるものとすることができるだろう。
 焔は本当に、帥に連絡をとってくれたのだろうか。波長を変えて遠話を送ったかもしれないが、真にはそれを確認することはできなかった。情けない話だが、あのあと、また眠ってしまった。
 安心したのかもしれない。焔がこちらの意見を容れて、ほんの少しでも譲歩したことに。
 それにしても、不思議だった。砦の目前まできて二重結界に閉じ込めていくぐらいなら、あそこでいつものようにこの身を貪って、そのまま捨てていってもよかったはずだ。が、あの男はそれをしなかった。しなかったくせに、ここまできて自分を置いていった。
 わからない。なぜあの男は……。
 どこかで鳴いていた梟の声が途切れた。真も歩を止める。気配を消して、身を低くした。
 草を踏む複数の足音。なにやらせわしなく話をしている。宗の国の言葉だ。
 俗に東原五州と呼ばれる宗、和、台、莫、彗の五国とその属国では、公式の場や商業取り引きの際には五州公用語と呼ばれる共通語が使われるが、当然ながらそれぞれの国には独自の言葉がある。
 真はもともと諜報局の人間である。五州の言葉はひと通り学んでいた。
「天睛が動いたというはまことか」
「は。昨夜のうちに本隊が砦を出たと、『草』が知らせてまいりました」
「思うたより早うござりましたな」
「『返し』がおるのじゃ。そうに違いないわ」
 「返し」とは裏切り者のことだ。天角の者たちは疑心暗鬼になっているのかもしれない。今回の件は珪秋が市で拾ってきた情報と、三叉の「草」からの報告が元になっているのだが。
「これ。めったなことを言うでない」
 ほとんど聞こえぬほどの声。この男はかなり用心深い。年齢もほかの者たちよりは上と思われた。
「したが、これではあれを使うには……」
「考えようによっては、これも天の思し召しかもしれぬぞよ」
「なにゆえに」
「われらが危うき道を行かずともようなったではないか」
「おお、それはありがたや」
 安堵の声。この男は小心者らしい。
「夜明けを待ってなどおれぬ。すぐにでも引き上げねば」
「されば、あれを置き土産に?」
「しかり」
 さらに低い声で何事が指示を出す。聞き取れなかった。悔しいが仕方ない。この場を動くわけにはいかないのだ。そんなことをしたら、こちらの気配を読まれてしまう。
 男たちは二手に分かれ、闇の中に消えていった。風の音。枯れ草がかさかさと足元を過ぎていく。
 もう、いいか。
 真は身を起こした。いまの話では、砦を与る者たちは夜のうちにここを出るらしい。天睛の部隊を恐れたからか……否、その逆だろう。
 トラップがあるのだ。
『あれを置き土産に』
 天睛の本隊を潰すだけのなにかが、この砦にはある。
 薄闇の向こうに、何カ所か篝火が見えた。あそこから男たちは出てきた。すなわち、あれが砦の中核をなす建物だ。
 迂回して建物の裏に潜む。どんな仕掛けだろう。天睛の本隊を迎え撃つほどだから、相当なものだとは思うが……。
 そこまで考えて、真はやっとあることに気づいた。
 焔がいない。
 さっきの男たちは、砦の中で異状が起こっているとは思っていなかったようだ。焔はだいぶ前に砦に侵入しているというのに。
 どうしたのだろう。あの焔が、敵陣でおとなしくしているはずはない。
 砦の中に入れば、焔を見つけるのは簡単だと考えていた。玄武の到着すら待たなかったのだ。武器庫や兵糧倉などを、派手に破壊していると思ったから。
 おかしい。明らかに、なにかが違う。
 防御結界をさらに強めようとして、やめた。
『どうせなら、もうちょっとゆるめに張りゃ見つかんないのに』
 三叉の村を探ったときに、焔はそう言った。過ぎたるは及ばざるがごとし。力のない者は、無理をしては命取りだ。
 砦に入る前に、いつもより防御結界を厚くした。それで十分なはずだ。いまここで術を上乗せしたら、その波動をだれかに感付かれるかもしれない。
 このままで、行こう。空気を乱さぬように。風のひとひらに同化して。
 真は建物に向かって、ゆっくりと歩き始めた。


 予想に反して、建物の内部は明るかった。
 もちろん昼間のように見通しがきくわけではないが、通路にはところどころに灯明があって、足元を気にしなくても歩けるほどだった。
 さて。
 分かれ道に来て、真は考えた。この先には明かりはない。進むか、あるいは引き返すか。諜報局が所蔵していた天角の砦の見取り図が正しければ、左の道が地下に続いているはずなのだ。
 あの資料の信憑性は五分五分。まかり間違えば、二度と生きて出られぬかもしれない。大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。
 ここまで焔の気配はなかった。とすれば、あとは……。
 真は左の道を選んだ。しばらく行くと、道がやや下り坂になり、さらに狭くなった。
 暗い。肉眼では数寸先も見えぬほどだ。どうしよう。術を使っても大丈夫だろうか。真は細かく気を巡らした。
 圧力は感じない。少なくとも自分がここにいることは、だれにも感付かれていないらしい。
 これなら、いける。真は小さく、口術を唱えた。この波長なら、危険を感じた小動物が発する程度のものだ。
 一歩、また一歩と足を進める。視界の先にうっすらと、格子戸が見えた。ほんのりとした明かり。
 だれか、いる。
 真は緊張した。いまのいままで、まったく気配を感じなかったのに。
 何者だろう。危険を承知で近づく。いつでも応戦できる態勢をとって。
「あ……」
 格子戸の向こう。薄明かりの中に見えたもの。それは。
 倒れ伏した人間の髪を掴んで、その額に印を刻む焔の姿だった。