炎の淵より  by 近衛 遼




其の二十一

 無気味なほどの静寂の中に、天角の砦はあった。
 ところどころに篝火。物見矢倉に何人か夜警の細作が配置されているようだが、ほかにはほとんど気配がない。もしかしたら、砦全体に結界を張っているのだろうか。自分などには到底できないが、結界自体にカムフラージュを施して敵の目を欺く方法もある。
「凄腕の術者がいるみたいだねえ」
 ぼそりと、焔が呟いた。
「砦まるごと、見事にカバーしてる」
「やはり、結界が?」
「そ。傍目にはわかんないけどね。遮蔽結界と……へーえ、封印結界もか。なんか、ヤバいもんを隠してるかな」
 金色の目が細められた。
「ま、こっちの動きは筒抜けになってるはずだからねえ。相当な兵力を貯えてるとは思ってたけど」
 天睛を孤立させて、一斉攻撃を仕掛けるつもりか。しかしそれなら、もっと早くに事を起こしていても不思議ではない。
 自分たちが天睛の砦に入って、もう二十日以上たっている。天角で工作を行なっていた仲間がいつの段階で敵方に見破られたのかはわからないが、珪秋が三叉の村に余所者が匿われているという情報を手にしたのは三日前。市で宗の国の「草」が噂話を流していたのは四日前である。とすれば、それ以前に和の国と槐の国との密約が天角に知れていたことになる。
 五日ないし六日、か。
 微妙なところではある。よしんば、和の国の細作から情報が漏れていたとしても、天角の者たちがそれを鵜呑みにはするまい。裏を取るのに最低三日。その後の計画をたてるのに二日として、さて、いま砦の中はどんな状況なのか。
「まーたまた、頭だけ先走って」
 ひょいと、焔が真の顔を覗き込んだ。
「過ぎたこと考えたって、仕方ないでしょ。アンタはカラダだけ使ってりゃいいんだよ」
 あごを掴まれる。深い口付け。そういえば、こうして唇を交わすようになったのはいつからだっただろう。
 最初のころは、まったくなかった。肉欲と支配欲。それだけしか感じられなかった。犬だと、オモチャだと言われ、ことさらに貶められて。
 ああ、駄目だ。また期待してしまった。理由を求めてしまった。
 舌で応える。そうだ。考えるな。この男がだれであろうとも。
 それでもいいと思ったじゃないか。なにも変わりはない。「焔」も「暁」も、この男の中にいるのだから、と。
「なーんか、すっごいそそられちゃってんだけど」
 唇をずらして、焔が言った。
「さすがに、ここじゃマズいからねえ」
 くすくすと笑って、体をはなす。目の前で、素早く印が組まれた。
「え……」
 真は焔を見た。これは封印の術。
 なぜいま、この術を使う必要があるのだ。問いかける暇もなく、真は封印結界の中に閉じ込められた。焔がさらに術を上乗せする。次は遮蔽結界。おそらく天角の砦に張られているのと同じ波長の。
「んー。こんなもんだね。息はできるだろ」
「どうして……」
「アンタは俺のものだからね。そこいらの雑魚に手を出されちゃ困る。しばらくここで、おとなしくしててよね」
 どういう意味だ。おれを置いていくつもりか。
「心配しなくても、あとでちゃんと拾ってやるよ」
 それだけ言うと、焔は一瞬のうちにその場から姿を消した。
 あとに残ったのは、薄墨色の闇と虫の羽音ほどの空気のうねり。どこに行ったのだろう。たったひとりで砦の中に入ったのか。二重の結界に隠された「なにか」を追って。
 無謀だと思った。たしかに焔は、御影の中でも群を抜く実力者だ。好機と見れば命令系統だの作戦だのは無視して行動し、それをことごとく成功させてきた。むろん味方の被害も甚大だったが、結果的に最終目的を達成してきたのだ。しかし、ここで単独行動をとるのはあまりにもリスクが大きすぎる。
 仕掛けるとは思っていた。自分などがなにを言おうと、焔はおのれの意志を曲げることはあるまい。ただ、動くにしても玄武の部隊が到着してからだと踏んでいた。やるなら、一気呵成に砦を陥とさねばならぬ。内側からの援護がないぶん、長引けば不利だ。
 焔はなにを考えているのだろう。わざわざ結界まで張って、こんなところに自分を封じていった。足手まといなのはわかっていたが、ここまできて、まさかこんな扱いをされるとは。
 本当に、体だけでよかったのか。細作として、あるいは副官としての自分など、これっぽっちも要らなかったのか。
『これは俺の副官なの』
 玄武を牽制したあの言葉は、その場限りのものだったのだろうか。
 多くを望んではいけないと思う。が、これだけは。
 暁。おれは、おまえのいる場所にいたい。たとえそれが、いちばん「死」に近い場所だったとしても。
 どうせ、死ぬつもりだったのだ。この作戦に参加したときから、人としてまっとうできる最期を求めていた。いまさらなにを惜しむ。
 真は深呼吸をした。ゆっくりと、周りに巡らされた結界の質を探る。
 複雑かつ巧妙な細工だ。なかなか波長を読み取れなかったが、これを解明しない限り、自分はこの場から一歩も動けない。
 これまで焔に教わった結界術のあれこれを思い出す。二重結界は、どこかに共通した項目があるはずだ。それがわかれば、解除の方法も推測できるのだが。
 結界の支柱は目的物の中心から等間隔に伸びる。二重結界の場合は異なる性質のものが同じ方向に伸びることになるから……これか。
 真は微妙に違うふたつの波長をキャッチした。といっても、これひとつだけでは解術することはできない。
 まったく、ご丁寧なことをしてくれて。ぐっと唇を結び、真は次の支柱を探した。


 放射線状に幾重にも張られた結界を解いたのは、焔がいなくなってから半刻ばかりたったころだった。
 真はふたたび、木陰から砦の様子を窺った。物見矢倉に異状はないが、これももしかしたら幻術によるまやかしかもしれない。なにしろ砦全体に結界が張られているのだ。目に見えるものだけを信じるわけにはいかない。
 行けるか。おれに。
 あの結界の中に。「暁」のそばに。
『心配しなくても、あとでちゃんと拾ってやるよ』
 「焔」はそう言った。けれど。
 闇の中、ちろちろと篝火がゆらめいている。先刻と変わらぬ静寂が漂う。
 真はふたたび、両手で印を組んだ。焔が自分に施した結界と、砦の結界は同じ性質のはずだ。ならば、これで内部に潜入できる。
 もっとも、真にはそれをカムフラージュするだけの力はない。砦に一歩足を踏み入れた途端に攻撃を受ける可能性もある。
 防御結界を張りながら、解術の印を組む。数ヶ月前の自分なら、とてもできなかっただろう。こんな高度な技は。
 さすがに、遮蔽結界までは同時に張れない。そのかわり防御を厚くしよう。とりあえず、最初の一撃は確実にかわせるように。
 暁。焔。どちらでもいい。おまえはいま、どこにいる。
 かすかな気配を求めて、真は砦の中に飛んだ。