炎の淵より  by 近衛 遼




其の二十

 あれから、どうなったのだろう。
 焔が滅却の印を組んだあと。真には記憶がなかった。痺れた体をなんとか動かそうとしたのだが、目の前が急に真っ白になって。
 床下にいた男は、おそらく骨ひとつ残らなかっただろう。「こいつがここにいた証拠はすべて消す」。焔はそう言ったのだから。
 そろそろと目を開けた。鬱蒼と茂った木々のあいだから、細い光が何本も差し込んでいる。まだ日は落ちていないようだった。
「やーっとお目覚め?」
 うしろから声がした。
「のんきだねえ。そんなことじゃ、いつ殺されても文句は言えないよ」
 大木の根元に腰掛けて、焔は武器の手入れをしていた。
「ここは?」
「見りゃわかるでしょ。山ん中だよ」
「三叉の近くですか」
「ばーか。いつまでもそんなとこにいるわけないでしょーが。家一軒、丸焼けにしてきたんだから」
 丸焼けだと? では、あの家の者たちは……。
「古い家だったからねー。景気よく燃えてくれたよ」
 刃先を確認しつつ、小柄を仕舞う。
「食う? せっかくだから、もらってきたんだけど」
 目の前に干柿が差し出された。
「欠き餅がよかったら、焼いてやるよ」
 吐き気がした。食料はしっかり確保して、そのうえで火を放ったのか。
「……なんて顔してんのよ」
 焔は干柿を横に投げ捨てた。
「アンタだって、細作の端くれだろ。まさか、人を殺したことがないなんて言わないよね」
 それは、そうだ。実戦に出るようになってから、何人もの命をこの手で奪ってきた。
「おんなじなんだよ」
 がっしりと、真は腕を掴まれた。
「アンタも俺も」
 まるで自分に言い聞かせるかのように、焔はそう言った。


 命を奪うという行為。それにどんな違いがあるのか。
 国のため。王のため。仲間や自分の命を守るため。そのほか、どんな大義名分を掲げたとしても、そのこと自体は変わらない。
「……んっ……は……あ…んっ」
 大木に手をつき、衝撃に耐える。背後から突き上げてくる熱い激情は、あと少しで全身を焼き尽くしてしまいそうだった。
 あまりのことに、ひざが崩れる。それを待っていたかのように背が押された。草の中に突っ伏して、なおもその熱を受け続ける。
「まだだよ」
 腰を引き上げられた。前に手が回る。
「これぐらいじゃ、許してやるわけにはいかないねえ」
 項に舌が這う。反射的に頭を振った。
「もっと、狂ってもらわないと」
 狂って? これ以上、どうしろというんだ。
 顔を上げた。背後を見遣る。切れ長の金色の眼がすぐそばにあった。
「……」
 名前を呼ぼうとした。が、それは音にならなかった。心の中で必死に呼ぶ。この男の本当の名を。
 それをどう解釈したのか、焔はうっすらと笑った。
「んー。いい感じだねえ」
 ぐい、と、あごを捕えられた。上体がねじれる。
「……っ」
 噛みつくような深い口付け。繋がった場所がいっそう熱くなった。激しい波が全身を襲う。
 狂って。溺れて。心も体も粉々になるほどに。
 真は自分が、焔の一部になったのを感じた。


 ふたたび目覚めたときは、夜だった。
 真は天幕の中にいた。衣服を整えて外を窺う。焔は焚火の横でじっと目を閉じていた。緋色の炎が端正な面を照らす。
 最初に見たのと同じ、懐かしい顔だった。形のいい眉も、すらりとした鼻筋も、薄い唇も。
「まーたまた、なによ」
 例によって、焔はぱっちりと目を開けた。
「そんな熱い視線、送っちゃってさ」
 すっと立ち上がり、天幕のそばまで来る。
「アレじゃ足んなかった?」
 思わず苦笑した。あれのどこが「足りなかった」んだか。
「あー、やな笑い方。やっぱりアンタ、俺をなめてんの」
「いいえ」
 神妙に答える。
「それより、天角の件はどうなりました」
 自分が意識を失っているあいだに、なにがしかの進展があったかもしれない。
「もちろん、ぶっ潰すよ」
 あっさりと、焔。
「アンタが見つけたヤツも言ってたでしょ。天角を捨てろって」
 あの男との遠話を聞いていたのか。真はこぶしを握りしめた。口を開こうとした瞬間、
「言ったはずだよ」
 焔は人差指を真の額に向けた。
「これ以上は許さない、って」
「……はい」
 とうとう、動き出してしまった。
 おそらく夜明けには、天睛の砦の者たちも天角へ向けて出立するはず。玄武のことだ。嬉々として部隊の編成をしているに違いない。
 いまごろ珪秋はどうしているだろうか。久住の城に繋ぎを取っていればいいのだが。
 久住には兵部所属のつわものたちが多く入っていて、中には御門と直接連絡が取れる者もいる。そこから和の都に連絡が行けば、御門の決裁を仰ぐこともできる。が、これらはすべて、他人任せの希望的観測でしかない。
 天角の砦の情報が久住に伝えられていなければ、それを御門が知ることは、まずありえない。目の前にいる男が報告するはずはないし、同じような判断基準を持っている玄武もしかりだ。
 どうにかして、都にこちらの情勢を伝えたい。真は考えた。
「ひとつ、訊いてもいいですか」
 まっすぐに焔を見つめて、言う。
「ん? なによ」
「久住の兵力なしで、天角を陥とせるんですか」
 この男と「陽家の玄武」が組めば、陥とせるだろう。そんなことはわかっている。しかし。
「なに言ってんの。楽勝でしょ」
「砦を獲るだけならそうでしょうが、その後の支配権はどうなります」
「へ?」
「結局のところ、われわれは利用されるだけなんじゃないんですか?」
 久住にも、あるいは都にいる御門にも話を通さずに事に及んだ場合、槐の国がすべてを自分たちの都合のいいように始末する可能性はあるのだ。
 もちろん、真自身はそれを信じてはいなかった。玄武のそばには、あの男がいる。おのれの主上に疵がつくことを、なによりも恐れる男が。
 香珪秋。手弱女のような顔をした、超一級の策士。
 あの男がいる限り、玄武にそんな卑怯な真似はさせないだろう。だが。
 焔はそれを知らない。それこそ、あの男を玄武の囲っている陰間だとでも思っているのかもしれない。
「ふーん。まあ、そーゆーこともないとは言い切れないよねえ」
 焔は焚火に枯枝を足しながら、
「玄武はともかく、周りにいるやつらは一癖も二癖もありそうだし」
 ぼっ、と、火が燃え上がる。
「帥には連絡入れとくかな」
 ぼそりと焔は呟いた。真は無言のまま、燃えさかる炎を見つめた。
 とりあえずは、これでいい。御影長の帥にこちらの状況が伝われば、それは必ず御門に上奏される。
「それにしても……」
 焔の手が頬を撫でる。
「このごろアンタ、ますます色がついてきたね」
 するり。指がすべった。耳から項へ。
「俺のこと、心配してくれるなんてさ」
 唇が重なる。先刻とは違って、ゆるやかな動きで。
「あしたは……天角に入るんでしょう?」
 唇をわずかにはなして、真は問うた。このまま事に及んでは、どう考えても明日は動けない。
「んー。それはそうなんだけどね」
 くすりと笑って、焔は真の頭を押した。
「じゃ、こっちで……ね」
 その部分はすでに、熱をはらんでいた。真は頷き、そっと焔の下衣に手をかけた。