炎の淵より  by 近衛 遼




其の十九

 草屋を覆っていたのは、防御結界だった。余人を寄せつけぬための、いわばシールドだ。
 攻撃結界にすれば外の者に気づかれるし、封印結界にすれば家人が出入りできなくなる。焔は「火事場の馬鹿力」だと言っていたが、少なくともこの結界を張った人物は、そういう配慮のできる状態にあったとみていい。
 いまは、どうなっているだろう。珪秋は「手傷を負った者」としか言わなかった。傷の深さや、幾日前からここに匿われているのかなどは、まったくわからない。
 焔が作ったわずかな隙間を抜けて、真は結界の中に入った。自らの防御結界の波長を調節して、草屋に近づく。
 人の気配がした。がさがさとなにかを運ぶ音。
 真は横庭に回った。大きな盥の中に洗ったばかりの大根が積んである。縁側には欠き餅がずらりと並び、庇には干柿が吊るされていた。
「なんだね、あんた」
 ひと抱えもあるザルを持った媼が、縁から下りてきた。ザルの中身は小豆だった。
「余所もんだね」
「はい。ついさきほど、村に入ったところです」
「見たとこ流れもんじゃなさそうだけど、なんの用だね。食いもんなら、ごらんの通りのもんしかないよ。米も麦も芋も年貢にとられちまったからね」
 よいしょ、と媼は小豆を選り分けはじめた。
「なんか買ってくれるんでなきゃ、さっさと出てっとくれ。年寄りだからって、甘く見るんじゃないよ」
 なるほど。これは焔の言った通りかもしれない。
 淡々と話してはいるが、決して警戒を怠ってはいない。板戸の陰からかすかに火薬の臭いがする。きっとこの媼の連れ合いが、猟銃かなにかでこちらを狙っているのだろう。
 媼と自分の距離は、わずかに二間あまり。飛びかかればすぐにでも捕えられる位置にいる。それなのに猟銃を構えているということは、よほどの馬鹿か、あるいはよほど腕に自信があるか。
 後者だろうな。真は判断した。この家の者は、そんな修羅場を何度もくぐりぬけてきたのだろう。若いころは、周辺に名を知られた賊だったのかもしれない。
「ひと晩中、山を歩いてきたんです」
 さも疲れたように、真は言った。
「水と、できればその干柿をいただけませんか」
 懐に手を入れる。媼に緊張が走ったのがわかった。なにか武器が出てくるとでも思ったのだろうか。
「私の村もこのごろは年貢の取り立てが厳しくて、冬のあいだは余所の町に出稼ぎに行かないと、食べていけないんですよ」
 しみじみと語を繋ぎつつ、ゆっくりと巾着を出す。
「天睛で雑役ができるかと思っていたら、なんだか今年は仕事がなくて」
 珪秋の作った筋書きをまねて、言う。
「天睛?」
「今年は人手が足りてるみたいでしたよ。それで、今度は久住のお城まで足を伸ばそうかと思って……で、いくらですか」
 真は巾着から数枚の金子を取り出した。
「え、ああ、干柿と水だね。どれくらい入り用かね」
「次の村までもてばいいですから、十ばかり」
「十だね。はいよ」
 媼がうしろを向いた。いまだ。
 媼を横抱えにして縁に飛び込む。戸板の陰にいたのは、やはり猟銃を構えた翁だった。片手で印を結ぶ。短い口呪。
 翁は唸り声を上げて、猟銃を足元に落とした。がっくりとひざをつき、壁にもたれる。
 この術は、焔から教わったものだ。それまで真は、片手で印を結ぶことなどまったくできなかった。
「御影の部隊にいて、そんなこともできないんじゃねー。殺してくれって言ってるようなもんだよ」
 焔は印を教えながら、そう言った。
「でも、まあ、みんなもアンタは殺さないだろうけどねえ。もっと楽しいコトができるのに、殺しちゃったらもったいないから」
 あの日はなかなかうまく術を発動できなくて、また演習場で組み敷かれた。
「みんなのオモチャになりたくなかったら、しっかり覚えてね」
 結界を張ってくれただけ、最初のときよりはましだったが。
 媼にも同じく術をかける。
「すみません。時間がないので」
 ふたりを縁側に置いて、奥へと進む。どこだ。目指す相手は。
 思ったより広い家だった。気配を探る。結界の中に入っているのだ。当人がさらに厳重な結界を張っていないかぎり、居場所はわかるはずだ。
 二重に防御をかけているのか。それなら。
 真はふたたび印を組んだ。今度は両手で。
 結界の中で解除印を使うのは危険かもしれない。しかし。残された時間は、あとわずかなのだ。
 はじかれないように、波長を合わす。ベクトルを調節して。
 下か。よし。
 足元に向けて、術を発動させた。
『解!』
 ずん、と、地震のような衝撃。板の間に隙間ができた。それを剥がし、中を窺う。
 当然ながら、暗かった。朝日に馴れた目にはそれが人間であると認識するには、しばらくの時間がかかった。
『聞こえるか』
 遠話で声をかけた。わずかにその物体が動いた。
『意識は、あるか』
『……三羽の雀は……』
 弱々しい、声。
『いずれに……いますや』
 これは、和の国の細作たちに伝わる合い言葉のようにものだ。
『雀などいない』
 これも定型の答え。
『されば、鷹は』
『ここに』
 こうして一連のやりとりが終わったあと。
 下にいた人物が顔を上げた。その顔には、包帯が巻かれていた。どうやら両眼とも失っているらしい。
『七代さまに、言伝を』
『承る』
『天角を捨てよ、と』
 やはり、か。真は唇を結んだ。珪秋が言っていたように、すでに天角に入った者たちは始末されたか、あるいは宗の国に取り込まれてしまったのだ。
『承知した。御身のことは』
『委細、構いなきよう』
 男は息をついた。満足したかのように。結界が見る間にゆるんでいく。
「名前を!」
 真は叫んでいた。
「御身の名前を……頼む!」
 せめて、碑に名前を。細作の中には、いつどこで命を落としたかもわからず、その名を墓碑に刻まれることもない者が多いのだ。
『よい』
「でも……」
『よいのだ。だれかは知らぬが……おぬしが見つけてくれたから』
 違う。おれじゃない。見つけたのは槐の国の「草」。おれはその情報を与えられただけ。この場所を見つけたのも、焔だ。おれじゃない。
 おれは、なにもしなかった。なにもできなかった。それなのに……。
『そんなことは、よい』
 真は、はっとして目を見開いた。
 まったく、自分はなんて未熟なんだろう。こんなに弱った相手にさえ、心を読まれてしまうなんて。いや、もしかしたら、死を間際にしているからこそ心の動きが見えるのかもしれない。
『おぬしは、ここに来た。それが……すべてだ』
 結界が消滅した。男の意識は、もうなかった。ひんやりとした空気があたりに漂う。
 息はかすかにあるようだった。しかし、ここから連れ出して医師にみせたとしても、おそらくは……。
「タイムアウトだよ」
 聞き慣れた声。真は顔を上げた。金色の双眸が見下ろしている。
「もう天角に行く必要もないね」
 焔はきれいに口の端を持ち上げた。
「まあ、行ってもいいけど、目的が変わっちゃったねえ」
 偵察ではなく、壊滅のために。
「さっそく玄武に知らせてやろうっと」
「いいえ! まずは七代さまに……」
「これ以上は許さない」
 焔は指を真の額に宛てた。
「……っ!」
 途端に全身が痺れた。板の間に転がされる。
「アンタは俺のものなんだからさ。勝手なこと、しないでよね」
 暗い床下を見遣って、焔が印を組んだ。
「な……なにを……」
「なにって、このまんまにしておけないでしょ。こいつがここにいた証拠はすべて消す。もちろん、あのじいさんたちも」
「そんな……」
「タイムアウトだって言ったはずだよ」
 鬱金色の瞳がひときわ妖しく輝く。
「だから、ジ・エンド」
 焔は、術を発動させた。