炎の淵より  by 近衛 遼




其の二

 暁には、五歳までの記憶がなかった。皆無ではないが、霧の中にあるようで、判然としないらしい。
「周にはじめて会ったときのことは、よーく覚えてるんだけどね」
 なにか籠のようなものの中に閉じ込められて、いろいろな音を聞いていたとき。ふいにその音が消えて、あたりに衝撃が走った。
 自覚はなかったが、暁はその音に感応してなんらかの術を発動させてしまったらしく、もう少しで建物ごと吹き飛ばすところだったそうだ。そのとき同じ建物の中にいた周がいち早く異状に気づき、自分の結界の中に暁を取り込んで事なきを得た。
 コントロールのきかなくなった暁の力はすさまじいものだったが、周は「大丈夫だから」と抱きしめてくれたという。
「なんか、よくわかんなかったけど……うれしかった」
 暁は懐かしそうにそう言った。
 なんて、素晴らしい人なんだろう。
 子供心に真は思った。ほんとに、父上の言ってた通りなんだ。
 昏周という名は、しょっちゅう父から聞いていた。
 真の父と周は学び舎の同期生で、実戦に出た当初は同じ部署で働いていた。大きな作戦にもたびたび参加し、互いにあわやという危機を何度も乗り越えたそうだ。
「あいつのためなら、この命も惜しくない」
 それが、父の口癖だった。
 その父は八年前、近衛府によるクーデターの折に還らぬ人となった。そして周も城を守るために自ら囮となり、命を落とした。
 暁の行方はわからなかった。が、周の側を片時も離れなかった暁のことだ。きっと彼岸に渡ってしまったのだろう。真はそう思っていた。
 あのあと、自分は城に引き取られ、学び舎を卒業するまでは、同じく身寄りのない子供たちとともに、寄宿舎で共同生活を送った。王は殉職した臣下の遺児救済に力を尽くしていたから、もし暁が生きているならそこに来たはずだ。
 暁は来なかった。ということは。
 ひとつの結論しか、浮かばなかった。
 暁は死んだのだ。……死んだはずだった。


 熱い。
 じりじりとまぶたの裏が焼けるようだ。体の中が沸騰しそうな気さえする。
 やっとのことで目を開けた。眩しい。もう、昼なのか。
 太陽の位置を確認する。なんてことだ。あれから、もう丸一日ちかくたっている。そろそろと手を動かし、体を起こそうとした。
「……くっ!」
 どこが、とは特定できないほど、全身が痛かった。もちろん、その場所は文字通りえぐられたように疼いている。
 ずいぶんなことをしてくれて。
 行為自体の経験は、真にもあった。最初は、実戦に出てすぐのころ。
 久住の城攻めに参加したとき、上官に伽を命じられた。できればそんな役目は遠慮したかったが、命令とあれば否やもない。遠征の際の関係は、その場限りのもの。これも任務だと言い聞かせて、夜を勤めた。
 それ以後も何度かその類の命令を下され、それなりにこなしてきた。だから、あの男が呪縛印など使わなければ、すんなりと受け入れていたと思う。
『抵抗するのを嬲るのも楽しいけどね』
 抵抗など、するものか。おれだって自分の身はかわいい。それなのに。
「……う……っ」
 自由にならない手足を、なんとか動かす。
 のどがかわいた。十間ばかり離れた川縁を目指す。油がきれた機械のような体をひきずって、ようやく清水を口にした。
 最低の状態ではあったが、どうにか思考回路が動きはじめた。
 とにかく、一刻も早く本部に戻らねば。仲間は、きのうのうちに復命を果たしているはず。このままでは、自分は落人として追われるかもしれない。
 あとどれぐらいで動けるようになるかな。
 傷だらけの体を見遣る。ひどいものだ。任務ならまだしも……。
 真は頭を振った。
 考えまい。いまは。
 あの男が何者なのか。なぜ、こんなことをしたのか。
 考えても、どうなるものでもない。いまは体力を回復させることが先決だ。
 清水をすくって、丸薬を飲む。疲労回復の特効薬。これできっと、夕刻にはここを出立できるだろう。
 休もう。それが、自分にできる唯一のことだ。
 真はぎゅっと目をつむった。


 翌日の未明。
 真は本部に帰還した。その足で城へと向かう。本殿の謁見の間。平伏して遅参を詫びた真を、白髪の王はねぎらった。
「……大儀であった」
 染み入るような声だった。遅れた理由について詮議されることはなく、報償金と休暇三日の沙汰を受けて、真は御前を辞した。
 休暇、か。
 正直、ありがたかった。この状態では、まともに仕事はできない。かといって遅参した挙げ句に有休を取るのもはばかられる。
 最後の力をふりしぼり、真は本部近くにある自分の家に向かった。


 それから三日のあいだ、真はほとんど夜具の中にいた。
 食事を作るのもおっくうで、水と薬と携帯用の食料を口にするだけで、あとはひたすら眠っていた。そして、四日目の朝。
「とりあえず……大丈夫だよな」
 鏡の前で確認する。
 あの男によってつけられた跡は、どうにか襟に隠れている。打撲や擦傷は見えてもどうということはない。真が砦に潜入して任務を遂行したのは周知のことだから。
 よし。行こう。
 きちんと戸締まりをして、真は家を出た。


「よおーっす、遠矢。たいへんだったなあ」
 諜報局の事務室。隣席にいた同僚が、片手を上げて話しかけてきた。
「おまえだけ帰ってこなかったから、くたばっちまったのかと思ったぜ」
「で、葬式の準備でもしててくれたのか?」
 いつも通りの口調で返す。
「いーや。葬式は礼部(儀礼を司る部署)の主催だから、おれたちは有志を募って『偲ぶ会』でもやろうかと……」
「それって、要するに飲み会だろうが」
「ピンポーン。大正解〜。……で、どうよ。今夜あたり、ぱーっといくか」
 冗談の中に、気遣いが感じられた。心配してくれたんだろう。きっと。
「まだ本調子じゃないんだけどな」
「いーのいーの。おまえはすわってるだけで」
「なんだ。おれはダシかよ」
「またまた大正解〜。じつはもう、『鳥清』に予約入れてあるんだよ」
 「鳥清」とは、いきつけの居酒屋である。その名の通り、焼鳥が売りの店だ。
「わかった。そのかわり、おごれよ」
 こういう気のおけない会話を交わしていると、ほんの四日ばかり前のことが嘘のようだ。が、いまでも体のあちこちに跡は残っているし、後遺症もある。
 体が癒えれば、忘れられるだろうか。もっとも、あのこと自体は忘れたいが、あの男が何者なのかという疑問はいまだ心に引っかかっている。
 暁に似ていた。寝顔は、昔の暁にそっくりだったのに。
 御影の構成員に「暁」という名はない。仮名を使っている可能性は否定できないが。
『どっかで会ったこと、あるよね』
 炎の中で顔を合わせたとき、あの男は言った。敵意のかけらもない顔で。それなのに、なぜ急に態度が変わったのだろう。
 御影との連携の任務など、そうそうあるわけではない。もう会うこともなかろうが……。
「遠矢」
 うしろから、声。真は思考を中断した。
「はい。なにか」
 背後にいたのは、諜報局長の球磨(くま)だった。
「七代さまがお召しだ。至急、奥殿に参じるように」
「奥殿?」
 城は、執務を執り行なう本殿と、御門のプライベートスペースである奥殿とに大別されるが、私邸ともいうべき奥殿に位の低い細作が召集されることはめったにない。警護の任に就いたときや、諜報活動の関係で奥殿の書庫にある資料が必要なときなどを除いては、原則として出入りはできなかった。
「そうだ。なにやら、特務であるらしい。急げ」
「承知」
 球磨も緊張しているようだった。真はやりかけの仕事をそのままにして、席を立った。


 奥殿の広間に、御門はいた。
「おお、来たか」
「は」
 下座でひざを折る。
「急なことだが……」
 重々しい口調。しばらく間があいた。
「そなた、御影の本部へ行ってくれぬか」
 微妙な言い回しであった。主命は絶対だ。拒むことなど、できようはずもないのに。
「御影、でございますか。しかし、わたくしにはそのような力は……」
 いやな予感がした。あまりにもタイミングがよすぎる。いや、悪すぎると言うべきか。
「御影に、焔(えん)という男がいる。その者が、そなたを副官にと望んでいる」
 びくり。
 一瞬、体が震えた。
 焔。御影。それはきっと……。
「わたくしに……選べと仰せで?」
「強制はせぬ」
 なにを言うか。断ればどうなるか、火を見るよりも明らかではないか。
 御門は見逃しても、あの男は承知するまい。必ず、自分がしたいようにする。あのときのように。
 目の前が、一瞬、真っ暗になった。ぐっとこぶしを握る。
「……参ります」
 固い声で、真は答えた。