炎の淵より  by 近衛 遼




其の一

 しくじったな。
 遠矢真(とおや しん)は自嘲ぎみに思った。
 とりあえず、仲間は皆、脱出したようだが。
 真は和の国の細作(間諜)であった。台の国との国境地帯。西亢の砦をにらむこの場所は、かねてから和の国にとって目の上のたんこぶのようなものだった。
 久住の城に匹敵するよな。
 真は常々そう思っていた。久住の城とは、宗の国と和の国の国境地帯にある城だ。厳密に言えば、宗の国の属国である槐の国の北東部に位置する。
 宗の国の前線基地とでもいうべきその城は、四年ばかり前に和の国が陥とした。その後、宗の国はそれに対抗するように砦を築いたが、いまのところ目立った動きはない。
 宗と台では状況が違うが、いちばん強いところを叩けば、あとはたいして手間はかかるまい。
 和王である七代目御門(みかど)はそう判断したのかもしれない。
 もともと、御門は好戦的な人物ではない。久住の城にしても、偶然に有利な情報が拾えたから、予定になかった城攻めまでしたのだ。その結果、拍子抜けするほどあっけなく、城を手中にした。
 まさか二匹目のドジョウを狙ったわけではあるまいが、今回もいろいろな条件が嘘のように揃い、この砦を一斉攻撃することになった。
 もっとも、久住の城と違って、長きにわたって緊張状態にあった砦である。そう簡単に事が運ぶはずもなく、真たち諜報局の者はかなり以前から下準備を進めていた。
 時期をずらして幾人かの間者を潜入させ、砦の内部を探る。全体の様子を掴んでから、本隊が砦に奇襲をかける。それが今回の作戦だった。
 それが。
 十日は余裕があるはずだった。真は御門から、直々に命を受けていた。それなのに。
 七日目の夜、砦は総攻撃を受けた。たしかに、警戒のゆるんだときではあったが。
 陣頭指揮をとっていた者が独断で行動したのだろうか。いまならいける、と。
 その判断は正しい。が、それは、砦に潜入していた間者を切り捨てることを意味する。
 どんなやつだ。そんな命令を下したのは。
 本隊の構成員に関しては、詳細なデータを与えられていなかった。名前と階級。それだけだ。
 火の回りは、思いのほか遅かった。
 これなら、おれも逃げられたかもしれないな。
 二度目の自嘲のため息。足を痛めているので、徒歩での脱出は無理だ。が、もし、移動の術を使えたら。
 城の結界は、もうほとんど崩れている。いまなら、なんとかなるかも。
 そんなことを考えていたとき。
 ばきっ。
 天井をぶち抜いて、だれかが降りてきた。
「やーっぱり。ここはまだ大丈夫だねえ」
 のほほんとした声。
「だからって、いつまでもつか……」
 長身の人影が振り向いた。ばさり。長い黒髪が揺れる。
 何者だ。この男は。装束からすると「御影」のようだが。
 「御影」とは公にできない工作や暗殺を専門に行なう特殊部隊の総称で、転じてその工作員個人をさすこともある。「御影」の部隊は王の直属なので、諜報局所属の者が御影と接触することはほとんどなかった。
「あれえ、あんた……」
 見様によっては金色にも見える黄土色の瞳が、こちらを見据えていた。
 異国の血が交じっているのだろうか。黒髪黒眼の民族である和の国においては、ついぞ見ない目の色をしている。言葉にはまったく訛りはないが。
「どっかで会ったこと、あるよね」
 ずかずかと近づいてきた。
「うん。この顔。たしか……」
「おれは、和の国の間者です」
 それだけ、言う。男はにんまりと笑った。
「へえ。そう。じゃ、行こうか」
 いらえを返す間もなく、担ぎ上げられた。
「動かないでね」
 低い声。続いて、複雑な口呪。炎が梁を崩す直前、視界が斜めに歪んだ。



 気がついたとき、真は岩場に横たわっていた。あわてて周囲を窺う。あの男はいなかった。
 十間ばかり向こうに、清水が流れている。緑の濃い木々の様子からして、和の国であることは明らかだった。
 助けてもらったのだろうか。あの金眼の男に。
「あーら、もう起きたの」
 背後から声がした。反射的に身構える。
「あと半日はぶっ倒れたまんまだと思ってたのに」
 件の男が、ひらりと岩場に降り立った。
「意外と、鍛えてんだね」
「……細作ですから」
「へーえ。でも、表任務専門の甘ちゃんでしょ」
 男はくすくすと笑った。
「ちょーっと予定外のことが起こったからって、腰抜かしちゃうなんて」
 べつに、怖じ気づいていたわけじゃない。術を使うタイミングを計っていただけだ。失敗はできない。術はかなりの「気」を使う。しくじったら、文字通りあとはないのだから。
「あらあら、怒った? ごめんねー、ええと……名前、なんだっけ」
 そういえば、まだ名乗っていなかった。
「遠矢真といいます。所属は諜報局です」
 とりあえず、一礼して言う。男はまじまじと真を見た。
「アンタ、頭、足りないんじゃないの」
 侮蔑の視線。
「どういう意味でしょうか」
「そんな簡単に名乗ってどうすんのよ。いくら『命の恩人』に訊かれたからってさ」
 男の指が、真の額に宛てられた。
 ふたたび、口呪。強烈な力が真の四肢を封じた。
「……!」
「名前はねえ、『呪』をかけるには絶好のエモノなんだよ」
 男の手が、衣服を剥いでいく。
「ま、どうせこうするつもりだったから、手間が省けていいけど」
 こうする?
 それでは、この男は……。
「抵抗するのを嬲るのも楽しいけどね。こーゆーのも一興ってことで」
 指先ひとつ、動かせなかった。
 これが御影の呪縛印。「名」を媒介としたそれは、いままで経験したことのないほど強力なものだった。
「力、抜いてねー。アンタがつらくなるだけだから」
 下肢が開かれる。
「そんな顔、しないのよ。助けてあげたでしょ」
 だれも、助けてくれなどと頼んでいない。こんなことのためなら、助けてもらわなくてもよかったのに。
「へーえ。強情なんだ」
 なんの準備もなく、それが押し込まれた。
「!」
 声も出ない。骨がぎしぎしと悲鳴を上げた。
「俺はいいけどね。久しぶりに、コーフンできて」
 前を掴まれた。潰されるかと思うほど激しく扱われ、真は全身をわななかせた。
「ほーんと、強情。どこまでもつか、見ものだねー」
 楽しげな声とともに、刺激が加えられた。容赦のないそれは、真が意識を失うまで続けられた。


 満身創痍。
 いまの真は、まさにその状態だった。自分の意志で体を動かすこともできない。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう。でも。
 とりあえず、まだ生きている。ならば、まだ希望はある。
 真は目を開けた。視界が極端に狭い。それでも、なんとかあたりの様子を把握することはできた。
 男は岩にもたれて目を閉じていた。眠っているのだろうか。ぴくりとも動かないが……。
「……え?」
 それに気づいたとき、真は自分の目を疑った。
 あまりのことに、自分はおかしくなってしまったのか。あいつがここにいるはずはないのに。

 暁(ぎょう)。
 天才的な能力を持つ、幼い術者。
『すごいね』
 あのとき、自分は言った。
『暁って、もう兵部で働いてるのか』
『うん』
『じゃあさ、危ない目にもいっぱい遭ったんだろうね』
 心配だったから。
 自分とたいして変わらない子供が、現場に出ているなんて。
『大丈夫だよ』
 暁は言った。
『周(あまね)と一緒だから』
 当時、王の懐刀と称されていた昏周(こん あまね)。
 彼は昏一族の直系だった。生まれながらにして、遠見や透視や遠話などができる特殊な能力を有する一族。彼らはそれゆえに、代々の王から国境や都の守護の要衝を任され、防波堤としての役割を担ってきたのだった。
『だから、ぜんぜん大丈夫』
 うれしそうな、誇らしそうな顔。
 暁には親と呼べる者がいなかった。ただひとり、あたたかな愛情を注いで教育してくれたのが周だった。暁は周を尊敬していた。愛していた。なによりも強く、深く。
 それが、十年前のこと。

 そこにある顔は、真の記憶にある暁の顔に似ていた。すらりとした鼻梁。薄い唇。形のいい眉。
 目の色はまったく違っていたが、眠りの中にある顔は、あのころのまま……。
「なーに見てんの」
 ぱちりと両眼が開いた。闇に潜む獣のような、禍々しい瞳。
「視線で人は殺せないよー。あ、もっとも、俺ならできるけどね」
 いかにも可笑しそうに、男は言った。
「俺にいたぶられるより、ひと思いに死んじゃった方がマシだって思うやつは多いみたいで」
 だろうな。でも、おれは死んでなどやらない。だれが自分から命を絶ったりするものか。
「……面白いヒトだね。アンタって」
 男の手が、真の首にかかった。
「アレもけっこう、よかったしさー。特別に、殺してあげよっか」
「どうぞ」
 即答だった。
 抗っても、どうなるものでもない。この男の正体がわからないのは悔しいが。
 真はじっと、男を見据えた。やるなら早くしろ。心の中で吐き捨てる。
 ふっ、と、喉を掴んでいた手の力が抜けた。
「ほーんと……面白いよ」
 唇が近づいてきた。ぺろり。首筋を舐める。
「今度は、たーっぷり悶えてもらおうかな」
 ふたたび術をかけて、男は言った。
「俺のこと、ほしいって思うまで、ね」
 真の体が、ふたたび開かれた。