炎の淵より  by 近衛 遼




其の十八

 結局、焔が房に戻ってきたのは夕刻だった。
「遅くなったから、飛ばすよ」
 砦を出た直後に、そう言われた。まったく、だれのせいで出立が遅れたと思っているのだ。あいかわらず勝手な言い草だ。もっとも、それぐらいで感情を乱されるようなことは、もうない。
 昼間に休息がとれたおかげで、体はかなり回復していた。
 もしかして。ふと、思う。自分を休ませるために、わざと玄武と賭け将棋をしていたのだろうか。
 甘い考えだとは思うが、暁がこの男の中にいると知ってしまったいまとなっては、ちょっとした行動や言動にその存在を求めてしまうのだ。
 思う心は自由だ。ただ、それに依存してはいけない。安心してはいけない。
 この男は、あくまでも「焔」という名の「御影」だ。気をゆるめたら、間違いなく切り捨てられる。殺されるのならまだいいが、それこそ有象無象の中に放り込まれてしまったら。
 以前なら、どちらでも同じだと思っていた。この男以上にひどい扱いをするやつはいないだろう、と。しかし、いまは違う。
 この男は暁なのだ。だから、いい。そう思うようになった。
「波長が変わったねえ」
 天睛から一刻ばかり走った山の中で、焔は足を止めた。
「こっちも防御結界を張り直さないと……。できる?」
 夜目にも鮮やかな金の眼がこちらに向けられた。
「はい」
 実際はかなり厳しいのだが、できないとは言えない。
「そ。じゃ、ちゃんとやってよ。ここから先は宗のやつらのナワバリみたいだから」
 焔はなにやら複雑な印を切った。空気の震える、微妙な音。
「さすがに天角の周囲は見えないねー」
「三叉はどうでしょうか」
 さりげなく、話を振る。
「三叉?」
「はい。あのあたりに余所者が増えたと聞いたので」
「だれによ」
「きのう里に下りたときに、茶店でそんな話をしていた客がいたんです」
 じつはその客とは珪秋のことなのだが。
「そんなこと、きのうは言ってなかったじゃないの」
「すみません。天角の砦の方が気懸かりだったので……」
 嘘と本当を交ぜて伝える。
「ふーん、まあ、そりゃそうか。あの陰間がイロイロ吹き込んでくれたみたいだもんねえ」
 にんまりと笑って、焔はふたたび印を切った。
「うーん、三叉にはヘンな『気』は感じないけど……あれ? なんだよ、これ」
 眉をひそめて、さらに神経を集中させる。
「おかしいな。一カ所だけ見えないところがある」
「見えないって……」
「なーんかヤな感じ。火事場の馬鹿力で、とんでもないことやったヤツがいるみたいだねえ。雑なクセにやたらと強固な結界張ってる」
 すっと手を下ろし、夜空を見遣る。
「ま、行きがけの駄賃でももらうかな」
 焔は三叉の村に興味を持ったらしい。進路を変更して北東へと足を進める。
 なんとか、うまくいった。真はぐっとこぶしを握りしめ、焔のあとを追った。


 三叉の村は、一見したところなんの異状もないようだった。
 早朝から野良仕事に精を出す者、水汲みをしている者、あるいは家畜の世話をしている者。そんなありふれた風景が広がっている。
「あそこだな」
 村から一軒だけ離れた場所に建っている古びた草屋。それが焔いわく「火事場の馬鹿力」の結界が張られた場所だった。
 真は木の上から目をこらした。たしかに、微妙な空気の流れを感じる。
「どうせなら、もうちょっとゆるめに張りゃ見つかんないのに」
 嘲るように、焔は言った。
「さあて、あン中に隠れてるのは、どっちかねえ」
 敵か、味方か。珪秋は和の細作である可能性が高いと言っていたが、必ずしもそうとは限らない。
「燻し出してみるかな」
 にんまりと笑って、焔は印を組んだ。破砕印だ。
「待ってください」
 あわてて、真は言った。
「いきなり攻撃して、もし仲間だったら……」
「それがなによ。殺さなきゃいいんでしょ」
 たしかにそうだが、破砕の術を使っては目立ちすぎる。だいいち、あの家の住人を巻き込んでしまうではないか。
「どうせ、あそこに住んでるやつらもスネに傷持つ身に決まってるんだし」
 真の心を読んだかのように、焔。
「そんなこと、どうしてわかるんですか」
「得体の知れないやつを匿ってるんだよ? カタギじゃないって」
 だからといって、巻き添えにしていい理由にはならない。
 真は考えた。かなり強固な結界だと焔は言ったが、同時に雑だとも言っていた。とすれば、隙間をすりぬけることも可能なのではないだろうか。
 結界自体は壊さず、中に入る。この男ならその類の術も会得しているはずだ。
 真は意を決して口を開いた。
「おれが、斥候になります」
「斥候? いまさら物見の必要なんかないでしょ」
「大事の前の小事です。ここで騒ぎを起こして、天角に警戒を強められては……」
「あいかわらず、頭でっかちだねえ」
 焔は真の項に手をやった。
「だれに向かって言ってるのか、わかってんの」
「……わかっています」
「へーえ。俺もなめられたもんだね」
 ざっ、と、頬を幹にこすりつけられた。項を掴む手に力が入る。
「ここなら大丈夫だとでも思ったの。甘いよ」
 体を幹に押さえつけて、焔は囁いた。どうやら、寝た子を起こしてしまったらしい。
「さすがに、俺も木の上でヤるのははじめてだけどねえ」
 おれだって、そうだよ。真は心の中で呟いた。まさかこんなところで、手を出してくるとは思わなかった。できれば地面に下りてからにしてほしい。うっかり失神でもしたら、そのまま落下しそうだ。
「やめて……ください」
 一か八かで言ってみた。
「お叱りは、村を出てから受けますから」
 下を探っていた手が止まった。くつくつと笑う声。
「アンタ、やっぱり面白いよ」
 焔の体が、すっと離れた。
「わざわざ俺を怒らせるようなマネをするかと思えば、殊勝なこと言っちゃったりもするし」
 仕方ないじゃないか。この村での仕事を成し遂げるためには。
 真は下衣を直し、あらためて前方の村に目をやった。結界が薄いのはどのあたりだろう。
「八時の方向だね」
 またしても心を読まれたらしい。
「物見に行くんでしょ。さっさと行けば」
 焔は左手で印を組んだ。それに口呪を乗せる。結界が歪んだのが、真にもわかった。
「あんまり長くはもたないよ。せいぜい七、八分ってとこ」
 そのあいだに自分が戻らなければ、この男は迷うことなく破砕の術を使うだろう。真は頷いた。
「ありがとうございます。では」
 真は件の草屋を目指して、枝を蹴った。