炎の淵より  by 近衛 遼




其の十七

 先刻、敷布を取り替えたばかりの牀の上で、真は焔の命令に従っていた。
 舌を絡めて、それを育てる。ゆっくりと、ゆっくりと。徐々に変化していくものが、口腔内を侵す。主張はだんだんと明確になり、そのときが間近であることを知らせていた。
「暁とかいうやつに、感謝しなくちゃねえ」
 いきなりその名を出されて、真は動きを止めた。
 どうしていま、そんなことを言うのだろう。自分はこの男の望む通りのことをしているのに。
「ほらほら、ちゃんとやってよ。でなきゃ、別んとこも使っちゃうよ」
 焔は真の項を掴んだ。
「さすがに、あっちはもうムリでしょ。それとも、もっと酷いことしてほしい?」
 冗談じゃない。このあと、天角まで行かねばならないのだ。これ以上の消耗は避けたい。真はふたたび、あごを動かしはじめた。もう少し。もう少しだ。
「そうそう。巧いよ、アンタ。よーっぽど、そいつの仕込みがよかったんだねえ。上も下も、絶品だよ」
 下卑た言葉。以前なら、吐き気を覚えていただろう。が、いまはもう、さして気にはならない。
 この男に目をつけられて御影本部に呼ばれたときは、まさに人身御供のような心境だった。それしか道はない。拒むことは許されないのだからと、無理矢理に自分を納得させた。
 外の任務に出られることを知ってからは、それだけを心の拠り所とした。死に場所を得るためならば、どんなことでも我慢できる。このまま飼い殺しのような状態が続くよりは、いくさばで果てた方がどんなにいいか。
 だから、この男の意のままになった。なにを言われても、なにをされても、ただ諾々と従って。
 けれど、あのとき。
『あまね』
 焔はそう言った。花弁の舞い散る庭園で、かつて暁が言ったのと同じ発音で。
 間違いない。この男は暁なのだ。真は確信した。
 なにゆえに、こんなことになってしまったのか。暁は「暁」であったころの記憶を失い、「焔」としてこの身を貪る。犬以下だと。おもちゃだと。そう言い放って。
 もう暁には会えないのだろうか。四阿でのことは、万にひとつの偶然だったのだろうか。あの、ほんの一瞬の邂逅が、自分に許された唯一のものだったのだろうか……。
 哀しかった。おのれのさだめに対してではない。暁が「暁」を失ってしまったことが、たまらなく哀しかった。
 あんなにも、暁は周を愛していたのに。愛することを知っていたのに。それがたったひとつの愛だとしても。
「……なに考えてんの」
 真の髪をまさぐりながら、焔は言った。
「いいカオ、しちゃってさ」
 そうでしょうね。あなたのことを考えていたんですから。
 上目遣いに、焔を見た。切れ長の目。整った顔立ち。やや口角の上がった薄い唇。やはり、あなたは……。
「あー、もう、ガマンできない」
 がっしりとのどを掴まれた。そのまま引き上げられる。
「アンタが悪いんだよ。そんな目で見るから」
 下肢のあいだに手が滑り込む。数刻前にさんざんいたぶられたその場所に、長い指が侵入した。
「ん……っっ」
 さすがに腰が引けた。入り口も内部もかなりダメージを受けている。このうえ新たな激情を受け入れることができるとは、とても思えなかった。
「ダメだよ」
 さらに奥を探る。
「ここ……でしょ」
 いつもの場所を刺激し、焔はうっすらと笑った。
「いい顔、見せてもらったからさ」
 するりと指が抜けた。体を返され、腰を引き上げられる。
「今度はいい声、聞かせてよ」
 真が育てた熱源が、深々とその場所に突き刺さった。

 いいのかもしれない。記憶などなくても。まったく別人であっても。
 この男は、まぎれもなく暁なのだから。
 真は身の内に、たしかな存在を感じた。

「出発は、昼飯のあとにするからね」
 焔の声が聞こえた。
 まぶたの向こうが明るい。ああ、もう朝なのか。起き上がろうとしたが、腰から下が麻痺したようになっていて動けない。
「ムリしなくっていいよー」
 無理させたのは、そっちじゃないか。目を閉じたままで、思う。
 焔が房を出ていったのを確認してから、真はそっと目を開けた。眩しい。目の奥がじんじんする。体のあちこちがぎしぎしと鳴るような気がした。
 出発は、午後か。それまでに体力を回復させておかなくては。
 ……いや、ほかにもまだ、することがある。
 真はそろそろと身を起こした。牀の陰に隠しておいた洗濯籠を引き寄せる。その中には、敷布や練り布とともに、若草色の小袖が入っていた。出立するまでに、これを洗っておきたい。
 いまからなら、中庭に干す時間もあるだろう。そう思って、真は洗い場へと向かった。

 晴天で、幸いだった。これなら、出立の前に取り込めるだろう。多少湿っていても、部屋に広げておけばいい。
 真は廂の下から空を見上げた。ぐらり。視界が揺らぐ。しばらく横になった方がいいだろうか。そう思って房に戻ると、扉の前に見知った顔があった。
「珪秋どの」
 すばやく、あたりを窺う。焔に見られてはまずい。自分たちは、天角の件で対立していることになっているのだから。
「あなたの上官なら、玄武さまと賭け将棋に興じておられますよ」
 琥珀色の目を細めて、珪秋は言った。
「まだお休みかと思っておりましたのに」
「そういうわけにもいきません」
「……なるほど」
 洗濯籠を見遣って、頷く。
「お互いに、苦労しますねえ」
 くつくつと笑う珪秋の爪には、いまだ藤色のエナメルが残っていた。
「で、なにかご用でも?」
 わずかの隙を狙ってここに来たからには、それなりの理由があるはずだ。
「ええ。じつは今朝方、三叉の『草』から知らせがありまして」
 珪秋は小さな声で続けた。
「村外れの民家に、余所者が滞在しているようです。しかも手傷を負って」
「三叉に、ですか」
 三叉とは久住と天睛のあいだにある山村である。
「その者の身元は」
「それはまだ……。しかし、可能性はありますね」
 天角から逃れてきた和の細作。もしそうなら、天角の内情が掴める。
「……いいんですか」
 ふと気になって、真は訊ねた。
「なにがです」
 小首をかしげて、珪秋。
「そんな重要な情報を、おれに漏らして。あとで玄武どのがお怒りになるのでは……」
「なにをいまさら」
 嫣然と、珪秋は微笑んだ。
「わたくしたちは、同志ではありませんか。あなたがあなたの信じるもののために戦うように、わたくしもわたくしの大切なもののために戦います。たとえこの身がどうなろうとも」
 そうだった。だからこそ、自分もこの男に心を許したのだ。
「わかりました。では、まず三叉へ行けばいいんですね」
「もし、その者が和の細作であれば、天角に関する詳細な情報が手に入るはずです。その場合は……」
「久住に事の次第を告げて、七代さまに指示を仰ぎます」
 焔がそれを承知してくれればいいのだが。
「……お願いしますよ」
 真摯な声。真は頷いた。
「最善を尽くします」
「ご武運を」
 すっ、と真の手を握り、珪秋は踵を返した。またたくまに気配が消える。
 さすがだな。真はいままで珪秋がいた空間をながめつつ、思った。
『わたくしの生家は、コウと申します』
 コウ。「香」。六家と呼ばれる、槐の国の名家。伎芸に秀でた一門だと聞いているが、細作としての技量も半端ではない。
 まもなく昼刻だ。が、玄武と賭け事をしているとなれば、出立は遅れるだろう。
 とりあえず、休もう。任務の最中に倒れては洒落にならない。
 すぐに出られるように装備を点検してから、真はそっと牀に横たわった。