炎の淵より  by 近衛 遼




其の十三

 翌日。
 朝餉のすぐあと、焔は玄武とともに砦を出た。
「夕方には戻るから」
 装束を整えながら、焔は言った。
「逃げちゃダメだよ」
 いまさら、どこに逃げると言うのだ。この世の果てまで逃げたとて、きっとこの男は追ってくる。そして自分は、これ以上はないというぐらい残酷な方法で殺されるだろう。この男が「焔」であるかぎりは。
「ま、それほどバカじゃないよね、アンタ」
 長い指が、真のあごを持ち上げた。
「はい」
 しっかりと視線を合わせて、答える。それをどう解釈したのか、焔は至極満足な顔でにんまりと笑い、房を出ていった。
 珪秋の話だと、焔たちは今日、宗の国の内宮の者と接触するらしい。今回の仕事の根回しか、あるいは事後のフォローを打診するためであろう。
 これがうまくいけば、いよいよ……。
 考えを巡らせていると、扉の向こうから聞き慣れた声がした。
「よろしいですか」
 珪秋だ。真はドアを開けた。
「なんだ。まだ着替えてなかったんですか」
 琥珀色の瞳を見開いて、珪秋が言った。
「市に行くのに、その装束は目立ちすぎますよ」
 真は御影本部から支給された標準服を着ていた。私服は、夜着と部屋着ぐらいしか持ってきていない。私用で砦の外に出ることがあるとは思っていなかったから。
 それを言うと、珪秋は小さくため息をついた。
「仕方がないですねえ。少し窮屈かもしれませんが、わたくしの着物でよろしければお貸ししましょう」
 真より、珪秋の方がいくらか小柄である。が、槐の国の着物は総じてゆったりとした仕立てになっていて、真が着ても不都合はなさそうだった。
「本当に、いいんですか」
 若草色の地に梅花文様の小袖。帯の織も細かくて、かなり値が張るものに思えた。里まで下りるには、険しい山路を通らねばならない。汚したり破いたりしたら大変だ。
「いいですよ。なんなら、差し上げましょうか?」
 こともなげに、珪秋は言った。それはもっと困る。理由もなく、こんな高価なものをもらうわけにはいかない。
「いいえ。じゃあ、お借りします」
 手早く着替える。珪秋がちらりとそれを見遣って、
「遠矢どのは、運が強いんですね」
「え?」
「だって、その傷。少なくとも、二カ所は急所をかすってますよ。それでも生き延びたなんて、運が強いとしか思えません」
 肩と、背中の傷のことを言っているのだろう。たしかに、あと数ミリずれていたら危なかった。とくに背中の傷は毒矢でやられたもので、解毒の処置が遅れていたら、死なないまでも細作としては使い物にならなくなっていたはずだ。
「わたくしも、その強運にあやかりたいものです」
「おれの運なんか、たかが知れてますよ」
 自分など、死に場所を探しているだけの人間だ。もっとも、ここまで来られただけでも運がいいのかもしれないが。
「そうでしょうか」
 小首をかしげて、続ける。
「二度あることは三度ある。わたくしは、あなたの三度目の強運に賭けますよ」
「賭けるのは自由ですが、外れても文句は言わないでください」
 そのときは、「文句」を聞くことなどできまいが。
「ええ、もちろん。恨み言など、申しませんよ」
 くすくすと笑って、珪秋は真を外にいざなった。


 砦から一刻あまりかけて、ふたりは山麓の村までやってきた。今日は十日に一度の市が立つ日らしい。
 何か月ぶりだろう。こんなふうに、市を見て歩くなんて。
 御影に配属されてから、自分は焔の所有物だった。当然、ひとりで宿舎の外に出ることも許されず、四六時中あの男の監視下にあった。
 最近でこそ、わずかながら自由な時間を持つことができるようになったが、それも宿舎や砦といった、いわば「檻」の中だけのこと。こうして外の空気に触れるのは、本当に久しぶりだ。
 買い出しと聞いていたので、それこそ背負い子に山積みになるほど買い込むのかと思っていたら、どうやら珪秋は玄武の個人的な遣いで出てきただけらしい。酒や乾物や菓子などをいくつか買ったあとは、ひやかし半分であちこちの店を見て回っていた。
「この敷物、だいぶ汚れてるじゃないの。それでこの値段?」
 女言葉で、珪秋が言う。
「ねえちゃん、こりゃ天嶺地方の上物だぜ。そりゃ、ちったあ汚れてるが、こりゃここまで運んでくるあいだに雨にやられちまったんだ」
「へーえ。雨ねえ。この時期に、連山で雨が降るって言ったら、天坐の方だけよ。天嶺なんて、よくもそんないい加減なことが言えるわね」
 天嶺は、連山の北東部にある豪雪地帯である。いまの季節に雨が降ることはまずない。敷物屋の男は顔色を変えて、うしろの布袋からごそごそとなにやら引っ張り出してきた。
「ねえちゃん、お蚕(かいこ)さんは好きだろ」
 手には、曙色の反物。「お蚕さん」というからには、どうやら本絹らしい。
「これは売り物じゃねえんだが、特別に分けてやってもいいぜ」
「売り物じゃないんでしょ。じゃ、お代はいいわね」
 さっと受け取り、踵を返す。真はあっけにとられつつ、そのあとに続いた。
「珪秋どの、いまのは……」
「口止め料ですよ」
 いつもの口調に戻って、珪秋は答えた。
「市なんてところは、玉石混淆ですからねえ。あこぎな商売をする輩もいるわけです」
「それじゃ、さっきの店は」
「天坐あたりか、もしかしたら江の国の品物を天嶺産だと偽っているみたいですね。汚れてはいても、天嶺の名前を出せば、そこそこの値で売れますから」
 そこまでわかっていて、口止め料を受け取ったのか。
「いいんですか。そんなことをして……」
「みんな、暮らしていかなきゃいけませんからね」
 ひっそりとした声で、珪秋は言った。
「まっとうなことをしていては、食べていけないんですよ。槐の国の民は、二倍の年貢を納めなくてはいけませんから」
 宗の国の属国は、ほとんどがこうした二重の負担を強いられている。数年前に税率が引き上げられてからは、槐の国から他国に出稼ぎに出る者や、身売りする者が増えた。
「市でごまかしをするなんて、かわいい方です。天嶺産というだけで大枚をはたくようなやつに、同情はしませんね」
 たしかに、ちょっと注意をすれば偽物を掴まされることはあるまい。とりあえず自分を納得させて、真は歩を進めた。
「あ、ちょっと待っててください」
 珪秋が真に荷物を押しつけて、ある店に入っていった。
 なんだろう。急に。なにげなく、中を覗く。そこは、紅や白粉や香水といった化粧品の店だった。珪秋は真剣な面持ちで、品物を選んでいる。
 もしかしてこの男、本当に陰間なのか?
 一瞬、そんな疑問がよぎる。たしかに、珪秋は美しかった。体つきも華奢だし、声も高くて少女と見紛う容貌をしている。現にこうして、市の中を女姿で歩いていても、まったく不自然ではない。
「お待たせしました」
 何種類かの化粧道具を買って、珪秋が店を出てきた。
「……どうしました?」
「それ、あなたが使うんですか?」
 思い切って、訊いてみた。いままで、この青年が化粧をしているのを見たことはないが。
「ええ、まあ。ふだんは使いませんが」
 じゃあ、どんなときに使うんだ。なんとなく思考が不埒な方へと流れていく。そういうのが、あの男の好みなのか。天睛を支配している「陽家の玄武」の。
「いやですねえ。へんな誤解をして」
 また顔に出ていたらしい。
「でも、それも面白いかもしれませんね。今度、あのかたのご機嫌がななめになったら、やってみましょうか」
 いかにも可笑しそうに、珪秋は笑った。
「じつはね」
 こっそりと、続ける。
「あのかたのご内室さまは、わたくしの従姉妹にあたりまして」
「はあ」
 玄武の正室は、その第一子とともに連山の南にある古城にいると聞いているが、それとこれと、いったいなんの関係があるのだろう。
「わたくしはご婚儀の折に護衛として随身してきたのですが、あのかたのご生家では奥向きは男子禁制のしきたりがあるとかで、仕方なく女官姿でお仕えすることにしたんです」
 どこの国でも地方によっていろいろなしきたりがあるが、「六家」と呼ばれる名家にもそれぞれ独特の慣習があるらしい。
「いまでも、ご内室さまの御前に伺候するときは女装をしなくてはいけなくて……なんとも大儀でございます」
 ほとんど形骸化している習わしであっても、それを無視するわけにはいかないのだろう。
「それは……ご苦労さまです」
 真が神妙にそう言ったとき。
 珪秋はさっと真の腕を取った。何事だ。驚いて身を引こうとしたところを、遠話の術で制される。
『そのままで』
 珪秋は真の肩に頭をもたげた。傍目からは、若い夫婦が仲良く買い出しに来ているように見えているだろう。
『十間ほど向こうに、茶店があるでしょう』
 用心深く波長を調節しながら、珪秋は言った。
『それが、なにか』
『あの店のあるじは、宗の国の草です』
 「草」。
 各地に住み着き、情報を集めるのを主な仕事としている細作のことだ。
『行きますよ』
 珪秋は、秀麗な顔を上げて微笑した。