炎の淵より  by 近衛 遼




其の十一

 玄武の近侍を務めている青年は、夕餉を乗せた盆を手にして房の中へと進んだ。卓上に盆を置き、流れるような動きで振り向く。
「玄武さまよりの言伝でございます。『さきほどは不快な思いをさせて申し訳ない。今後は不用意な物言いはせぬゆえ、許せ』。以上です」
 玲瓏な発音。まるで宗の国の公卿のようだ。
「お気遣い……いたみいります」
 なるべく丁寧に返す。御門に対するときのように。
 それをどう受け取ったのか、珪秋はくすりと笑った。つややかな墨色の髪が揺れる。やや薄い、琥珀色の瞳が細められた。
「お互いに、苦労が絶えませんねえ」
 途端に、くだけた口調になった。
「とりあえず、食べませんか。腹が減ってはいくさはできぬ、と言うでしょう?」
 どんな「いくさ」だよ。思わず、心の中で呟いた。
 いったい、どういうつもりなのだろう。焔と玄武が広間で酒を酌み交わしているあいだに、自分のことを探りにきたのだろうか。
「そんなに恐い顔をなさらなくても、大丈夫ですよ。食事に毒など混ぜておりませんし、わたくしも武器を携帯してはおりません」
 なにを言うか。
 天睛の砦を与る男の近侍。あの緊迫した空気の中で、ひとりだけ涼しい顔をしていたほどの男が。
 諜報局に配属されて三年余。真とて遊んでいたわけではない。それなりに情報収集や潜入任務をこなしてきたのだ。所作や言葉遣い、ちょっとした「気」などから相手の思惑を読むことぐらいはできる。
「……と、言っても信じてはいただけないでしょうねえ」
 さらに、くすくすと笑う。
 その顔は、まるで少女のようだった。俗に「箸が転がっても可笑しい」と言われるころの。
「いくら契約を結んでいるといっても、ここは敵地ですし。一歩間違えば、あなたがたは生きて帰れないわけですものね」
「それは、そちらも同じでしょう」
 焔を敵に回して、無傷でいられるわけがない。自分などはものの役にもたつまいが。
「それはそうですね」
 あっさりと、珪秋は言った。
「ですから、そんな馬鹿な真似はいたしませんよ。さ、食べましょう。ぐすぐずしていたら、あなたの上官が帰ってきてしまいますから」
 てきぱきと取り皿を並べる。どうやら、しっかり二人前用意してきたらしい。
「わたくしも、なにかと難しい上官に仕えておりますのでね。少しはあなたのご苦労もわかるつもりです」
 わかる?
 その言葉に、過敏に反応しそうになった。
 だめだ。挑発に乗ってはいけない。ここで感情を顕にしては……。
 かろうじて、こらえる。昔の暁の顔を思い浮かべて。
「たしかに……」
 機械的に、声を出した。
「難しそうな御仁ですね」
 言いながら、卓に着く。
「ええ。なにしろ、ご自分の思うがままに動きたいというおかたなので」
 それは、焔も同じだな。
 なんとなく、納得する。あの二人が、牽制しつつもそれなりに良好な関係を築いている理由は、そのあたりにあるのかもしれない。
「今回の件については、こちらの立場が弱いものですから、あのかたのご機嫌を取るのが大変なのですよ」
 小皿に料理を取り分けながら、珪秋はため息をついた。
「どうぞ。……ああ、これは、わたくしがいただきましょうか。細工などしてはおりませんが」
 さすがに、ここまでされると苦笑するしかない。
「いただきます。ここでなにか事を起こして、困るのはそちらでしょうから」
 一応、釘を差す。珪秋はまた、さも可笑しそうに笑った。
「ですよねえ。でも、そういうことを理解してくださらないかたもいらっしゃいますので」
 なるほど。
 和以外にも、独立を支援するという勢力に接触したことがあるらしい。その相手は、彼らの真意を汲み取れなかったのだろう。ゆえに、彼らはそれを切り捨てた。
 どこだろうか。ここ一年ほどのあいだに、槐の国に接触したのは……。
 答えは、数瞬で出た。江の国だ。国主の権力が弱まり、それに対抗する形でまつりごとに口を出すようになってきた、西郷寺。
 西郷寺は代々の国主の菩提寺でもあり、民衆から絶大なる支持を受けている。僧門にありながら、国主を蹴落とそうとしている西郷寺なら、槐の国の独立に加担して利を得ようとしても不思議ではない。
「それはたしかに、ご苦労なことで」
 半ば本気で、感想を述べる。
「ほんに。なかなかに大儀でございます」
 珪秋は自分の皿にも料理を取って、席に着いた。
「頂戴いたします」
 優雅な仕種で手を合わす。真もそれに倣った。
 無言のままで、食す。薄味の、野菜中心の献立だったが、胃の腑に染み入るような味だった。
 なんだか、へんな気分だ。本来なら最も警戒しなくてはいけない場所で、こんなにもゆったりとした気分で食事ができるなんて。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
 食事を終えたあとで、珪秋が訊いた。一瞬、戸惑う。名前は人を支配するものだから。
 焔がそれを「呪」の道具に使ったように、この男か、あるいは玄武がそれを利用するかもしれない。しかし……。
「ええ。いいですよ」
 迷いは、文字通り一瞬で消えた。
 玄武は焔に自らの出自を告げている。それならば。
「遠矢真といいます」
 琥珀色の瞳をまっすぐに見据えて、真は言った。
「遠矢真」
「はい」
「では……」
 にっこりと、珪秋は笑った。
「わたくしの生家は、『コウ』と申します」
「……コウ?」
「はい。字は……」
 卓の上に、なめらかな筆致でそれが書かれた。
『香』
 真は両眼を見開いた。
 香。つまり、この男は……。
『香珪秋』
 「六家」のひとつ、香家の末裔だということか。
 御門が今回の策を立てたのはこのためであったか。
 知っていたのだ。御門は。天睛の軍備も、兵備も、さらにはそれらを束ねる者たちの出自さえも。
 三匹めのドジョウになるかどうかは、わからない。それでも、その可能性があると考えたのだろう。いくらかの犠牲は覚悟しなければならないとしても。
 先の作戦のときのように、焔が独断で動くことは十分にありうる。いや、今度の方が、その確率は高い。
 焔は、玄武と誼みを通じている。互いに侮れぬ相手として認識したうえで。
 二人の価値観は、常人には計り知れぬものがある。それがいざというときに一致すれば。
 久住の城にいる者たちも、天角の砦に入った間者たちも、すべてが見殺しにされるだろう。あの二人なら、それぐらいのことはやってのける。
『結果オーライだってこと、わかんないのかねえ』
 焔はそう言った。おそらく、玄武も同じ考えだろう。
「ねえ、遠矢どの」
 ひっそりと、珪秋は言った。
「わたくしたち、同盟を結びませんか」
「同盟?」
「そうです。お互いに、よりよき道を探るために」
「……あなたは、それでいいんですか」
 槐の国の独立が遅れることになっても。
「ええ。わたくしの願いは、あのかたに疵(きず)をつけぬことだけです」
「疵?」
「いずれ、あのかたはこの国を背負う。王者には、疵があってはなりません」
 決意。
 それが、この男のたったひとつの支えなのだろう。
「わかりました」
 真は答えた。
「具体的には?」
「それは、また後日」
 ぴしゃりと言って、珪秋は卓を片づけはじめた。空気が微妙に揺らぐ。
 焔だ。あの男が近づいている。
「それでは、わたくしはこれにて」
 盆を手にして、珪秋は作法通りに礼をした。真もきっちりと礼を返す。
「あーらら。なにやってんの」
 互いに頭を垂れているところに、焔が現れた。
「玄武さまの命により、こちらに夕餉をお届けに上がりました。そちらさまに断わりもなくこのようなことをいたしまして、誠に申し訳ございません」
 流麗な言葉遣いで、事情を説明する。焔はたいして興味もなさそうに、横を向いた。
「いいよー、べつに。……で、メシはもう終わったのね」
 後半は、真に対しての言葉だった。
「はい」
 端的に答える。
「よーかった。んじゃ、元気あるよねー」
 にんまりと笑って、腰を引き寄せる。
 やはりな。真は心の中で苦笑した。珪秋は表情ひとつ変えずに、戸口で一礼した。
「されば、わたくしはこれにて」
 音も立てずに扉が閉まる。房の中に、ふたりだけが残された。
「なーんか、陰間みたいなやつよね」
 戸口を見遣って、うそぶく。
「ま、あっちはあーゆーのが好みなんだろうけど」
 ばさり、と、牀に押し倒された。
「俺は、もっと手応えのあるのがいいなー」
 いつもの表情。いつもの声。手際よく衣服が剥がされていく。
「ちょっと、抵抗してみない?」
 いたずらを仕掛ける子供のように、焔は言った。
 そうですね。あなたがそれを望むなら。
 そして、真はその通りにした。