宿り木  by 近衛 遼




第一話 飛んで火に入った男

ACT2

 数日後。
 篁冬威と三剣茉莉は繁華街の居酒屋にいた。
「さあさあ、マリちゃん。今日はオレのおごりだからね〜。なんでも好きなもの注文してー」
 なんとなく、部下の女の子をタラシにかかっている上司のようなセリフだが、あまり深くは考えないことにする。茉莉は品書きの中から、中ほどの値段のものをいくつか注文した。
「えーっ、それでいいの? オレ、ここのおやじさんの弱み、いーっぱい握ってるから、もっと高いもん注文してもいいのに〜」
 ……ほかの客に聞こえるだろうがっ。
 冷や汗が背中を伝う。茉莉はひきつりながらも、なんとか笑みを作った。
「いいえ。とりあえず、それぐらいで……」
「マリちゃんって、遠慮深いんだねえ。かーわいいっ」
 かわいいと言われてもうれしくはない。やっぱり断ればよかったかと思いつつ、茉莉は運ばれてきた冷酒をちびちびと飲んだ。冬威はというと、タンブラーになみなみと注がれた透明な液体を、まるで水のように一気飲みしている。
 大丈夫なのかな。あれって、たしかウォッカじゃなかったっけ。
「あの……」
 おずおずと、茉莉は口をはさんだ。
「なあに?」
「そういう飲み方は、体によくないですよ」
「え、酒って、飲み方に作法なんかあるの」
「いや、その、そういうわけじゃなくて……」
「だったら、いいじゃん。マリちゃんって、もしかして下戸なの〜?」
「そうじゃないですけど……」
 会話の論点がずれている。
「まあ、あんまり強い方じゃないですね」
「そーゆーのを下戸っていうんでしょ」
 それぐらいのことは知ってるんだぞ、という顔で、冬威は言った。あいかわらず、グラスを空けるピッチは速い。
 ザルだな。
 茉莉は思った。
 酒に強い体質なのはわかったが、まともな食事もせずにアルコールばかり摂取するのは、どう考えてもまずい。
 茉莉の父も酒豪だった。ひと晩に一升瓶を何本も空けて、それでも翌日にはケロッとしていた。が、あるとき急に体調を崩し、一年とたたぬ間に亡くなってしまったのだ。
『酒と心中したんやから、大将も本望やろ』
 大阪生まれの母はそう言って、人前では涙ひとつ流さなかった。もっとも、自分や妹の見ていないところではどうだったか、定かではないが。
 茉莉は冬威にある提案をした。居酒屋を出た直後である。
「篁さん」
「んー、なに?」
「今度は、おれにおごらせてください」
 冬威は目を丸くした。
「いいの? マリちゃん」
「はい。来週にでも、うちに来ませんか」
「……マリちゃんちに?」
「ええ。たいしたものはありませんが」
「うんっ。行く行く!」
 即答だった。
「絶対だよ。で、いつ?」
 なんだか、せわしないことになってしまった。
「ええと……すみません。いま抱えてる報告書の整理とか、経費の計算とかが終わってからということで……」
「じゃ、終わったら教えてねっ」
 がっしりと手を握り、冬威は言った。茉莉は反射的に頷いた。
 これが、まずかったのかもしれない。



 次の週の半ば。冬威は茉莉の家を訪れた。商店街の外れにある、築二十年の長屋である。
 茉莉は自分が子供のころに作ってもらった献立を、なるべく忠実に再現した。とくに料理が得意なわけではないが、実家が老舗の旅館だったため、板前たちが料理を作るのを目にする機会が多く、自然とあれこれ覚えてしまったのだ。
「なんなの、これ」
 卓袱台の上に並んだ料理を見て、冬威は目を丸くした。
 なんだと言われても困る。ほうれん草のごまあえと、豆と昆布の煮物、鳥肉のからあげ、ワカメの味噌汁。ほかに冷や奴やタコの酢の物を用意したが、この男はこういうものをまったく知らないのだろうか。
 目にしたことはあっても、とりあえず摂取するために、全部いっしょくたにして口に運んでいたのかもしれない。
「すみません」
 一応、あやまっておく。
「おれ、あんまり凝ったことはできなくて。とりあえず、食べてみてくれませんか」
 冬威はじっと卓袱台と茉莉を見比べた。コップの中は麦茶である。
「酒はないの」
「ひと通り、味見してもらったら出します」
 酒ばっかり飲まれるのはイヤだ。
「うん。じゃあ、ええと……いただきます」
 ぎこちない言葉。冬威はぺたんとすわって、味噌汁をすすった。
「熱いよ、これ」
「味噌汁は熱いのが普通なんです」
 次に、酢の物。
「うわ、酸っぱいっ」
「酢の物ですから、あたりまえです」
 そして、豆と昆布の煮物。
「ぬるぬるしてて、取りにくい〜」
「そういうもんです」
 ひとつひとつ、解説する。冬威はまるで、実験するかのように箸を運んだ。箸の持ち方も、見事に幼児並みだ。
「……マリちゃん」
「はい」
「なーんか、フクザツなんだね。食べ物って」
 冬威はしみじみと言った。
 ゆっくりと箸を進めながら、それぞれの味を堪能している。茉莉はほっとした。とりあえず、自分の努力は無駄ではなかったようだ。
 すべての料理が冬威の胃に納まった。冬威は箸を置いて、
「ごちそうさまでした。……で、いいんだよね?」
 ちらりと茉莉を窺う。
 そんなことも知らなかったのか。食事の前後の挨拶さえ。茉莉は苦笑した。
「そうですよ。お粗末さまでした」
「ぜんぜん、粗末じゃないよ!」
 真剣に、冬威が言った。もう言い返すこともできない。
「お口に合って、よかったです」
 心から、そう言った。
「よかったら、また来てください」
 返す返す、これがまずかったと思う。
 この男に社交辞令や言葉のあやを期待した自分が甘かった、と。


「こんばんは〜」
 三日と空けずに、冬威はやってきた。
「ねえねえマリちゃん、今日のおかずはなに〜?」
 開口一番、そう訊く。
 惣菜屋で買ってきた煮物や揚げ物だと、あからさまに不機嫌になって「オレ、マリちゃんのごはんがいいなー」と言う。
 まったく、付け上がって……。
 そうは思いつつも、この男はいま幼児期を取り戻しているのかもしれないと考えて、茉莉はできる限りのことをした。
「美味しいね〜」
 そのひとことが、胸に響く。美味しいと思ってもらえるなら、多少の苦労は仕方ないか。どうして自分がこんな、乳母のようなマネをしなくてはいけないのかとは思うが、それが決して不愉快ではないのだから、まあ、よしとしよう。
 冬威は日毎に、まっとうに成長しているように見えた。箸の持ち方もうまくなったし、外で食事をするときも普通に食べられるようになった。
 それなのに。


 いま、冬威は茉莉を敷布に押しつけて蹂躙している。
 体の自由がきかないのは、この男が持ってきた梅酒のせいだ。
「新物なんだって、これ。だから、あっさりしてて飲みやすいと思うよ」
 大きな瓶に入ったそれは黄金に輝いていて、じつにいい匂いがした。
「マリちゃん、昔、梅酒を盗み飲みして叱られたって言ってたでしょ。いまだったら、だれも叱らないよ〜」
 そうだった。子供のころ、母が作った梅酒をこっそり飲んで、ぶったおれたことがある。あとでさんざん、怒られた。その話を、この男は覚えていたのか。
 茉莉は勧められるまま、グラスを重ねた。懐かしい、甘い匂い。
「ごちそうさま〜」
 冬威がいつものように、卓袱台の前でごろりと横になった。
「お腹がいっぱいになると、シアワセだよね〜」
 うとうとしながら、そんなことを言う。
 たしかに、そうだ。茉莉も幸せだった。あたたかく、ゆったりとした気持ちに満たされて。
 茉莉は押入から蒲団を出して、冬威に掛けた。くうくうと寝息が聞こえる。
 後片づけをしなくては。
 卓袱台の上を拭いて、洗い物を流しに運ぶ。冬威が飲み残した梅酒がグラスに半分ばかりあった。
 捨てるのはもったいない。茉莉は、くいっと一気に飲み干した。
 やっぱり、美味しいよなー。
 そんなことを考えながら、食器を洗う。水きり籠に食器を納めたころには、すでに夜も更けていた。
 急速に酔いが回ってきたようだった。茉莉は奥の八畳に蒲団を敷いて、倒れるようにして眠りについた。


 そして。
 この状況である。
「ここ、ダメ?」
 耳元で冬威が囁く。馬鹿野郎。いいから困ってんだよっ。
 茉莉は唇を噛み締めた。アルコールの勢いでこんなことになったなんて、悔しいじゃないか。
 自分は男だ。そして、こいつも男なんだ。
 それを認めるのは絶対に嫌だった。拒まなくては。いまさらどうなるものでもないにせよ、このまま流されるもんか。
「……いや……だ」
 必死に言う。が、どうやらそれは、反対の意味に受け取られてしまったらしい。
「イヤよイヤよも好きのうち、っていうもんねー」
 このクソッタレ!!
 茉莉は目を閉じた。
 早く終わってくれ。一刻も早く。
 夜が明けたら忘れるから。なにがなんでも、忘れてみせる。呪文のように、茉莉はその言葉を唱えた。
 忘れる。忘れる。忘れてやるとも!!



 やたらと執拗な行為のあと。
 朦朧とした意識の向こうで「ごちそうさま〜」という、のほほんとした声を聞いたような気がした。

 ごちそうさま、ね。少なくとも、おれは残飯じゃなかったわけか……。
 われながら情けない感想だぜ。
 自暴自棄になりながらも、茉莉はとりあえず睡魔に身を委ねたのだった。


  (THE END)