宿り木  by 近衛 遼




第一話 飛んで火に入った男

ACT1

 目を開けると、薄いモスグリーンの双眸が見えた。
 こんなに近くで見るのははじめてだ。栗色の髪がさらさらとゆれている。
 ハーフよりもクォーターの方が日本人離れした顔立ちになることがよくあるらしいが、この男の場合もそうなんだろうな。ノルウェーだったか、スウェーデンだったか、とにかく北の方の血が混じっていると言っていたっけ。
 三剣茉莉(みつるぎ まつり)はぼんやりと、そんなことを考えた。
 引き込まれるような端正な顔。それがさらに近づいてくる。
 茉莉はそのときになって、やっと自分の置かれている状況に気づいた。
「たっ……」
 やっとのことで、声をしぼり出す。
「篁さん、なにしてるんですかっ」
 茉莉の体の上に、職場の先輩である篁冬威(たかむら とうい)がいた。厳密に言えば、茉莉は蒲団の上で冬威に組み敷かれていた。
「なにって……いいコトだよ〜」
 悪びれもせずに言う。人の寝間着を剥ぎとって、脚を持ち上げておきながら。
 両ひざが二の腕近くにまで来ている。この異常事態にいままで気づかなかった自分を猛烈に反省しつつ、茉莉は冬威をにらみつけた。が、その視線は完璧に無視されてしまった。下肢のあいだに異様な感覚が走る。
「んっ……」
 冬威の指が深い部分に入り込んだのだ。
「これの、どこが……いいことなんです」
 ひとこと言うたびに腰に響く。
「あれえ。よくない?」
 ぐっと、一点に力を込められた。茉莉の体がびくりと震える。
「こっ……こんなことは余所でやってくださいよ。おれには、そういうシュミは……」
「心外だなあ。余所でしたことなんか、ないよ」
 嘘つけ。それで、どうしてこんなふうにできるんだ。
「ちゃんと、よくしてあげる。だから……」
 腰を固定して、さらに奥を探る。
「おとなしくしててね〜」
 冬威はにっこりと笑った。波が引くように、するりと指が抜ける。直後に、ふたたび激しい圧迫感。
 どうして、こんな目に遭わなくてはいけないんだ。この男に、なにか悪いことでもしただろうか。
 いいや。礼を言われることはあっても、こんな仕打ちを受けるいわれはない。
 茉莉はいままでの経緯を振り返り、そう結論づけた。



 冬威にはじめて会ったのは、いまの仕事に就いて十日目のことだった。
 茉莉が勤めているのは菅原事務所といって、いわゆる興信所だ。昨今の就職難、大学は卒業したものの定職はなく、アルバイトで食いつないでいたとき、新聞の求人欄に載っていた「事務員募集」の広告を見て面接に行ったところ、即日採用された。
「ほんとですか?」
 いままで山ほど不採用通知を受け取っていたせいか、すぐには信じられなかった。
「本当ですとも」
 所長の菅原海里(すがわら かいり)は、のんびりとした口調で言った。
「三剣くんこそ、本当にウチでいいのかな?」
 菅原は元警察官で、調査を担当するほかの所員たちは皆それぞれになにかしらの前科を持っていた。そのためか、カタギの人は長続きしないらしい。
「もちろんですっ!」
 茉莉は即答した。
「おれ、一生懸命働きます。よろしくお願いしますっ」
 こうして、茉莉は菅原事務所の事務員となった。
 その日のうちに、四人いる調査員のうちの三人にまでは紹介してもらったのだが、遠方に出張中だという一人には十日後まで会えなかった。それが、篁冬威である。
「トラブルメーカーでトラブルシューターでトラブルプレイヤーね」
 元スリだという長瀬雛は、冬威を評してそう言った。
「トラブルメーカーとトラブルシューターはわかりますけど、プレイヤーってのはなんですか?」
 伝票をチェックしながら茉莉が訊ねると、雛はきれいにルージュを引いた唇を笑みの形に作って、
「そのまんまの意味よ。トラブルを楽しんでるの」
 なるほど。たしかに「Play」には楽しむという意味もある。
「ロシアンルーレットみたいなやつ」と言ったのは、元金庫破りの藤堂健(とうどう たける)だ。
 調査依頼の中でも、もっぱら危険度の高いものを請け負っていて、これまでに何度か死にかけたそうだ。
「なんだか、ドラマに出てくる探偵みたいですね」
 茉莉が感想を述べると、
「んな格好いいもんじゃねえよ」
 元サギ師の上中野景虎(かみなかの かげとら)が、煙草をフィルターぎりぎりまで吸って呟いた。
「野郎は仕事はできるが、ふだんはまるっきりものの役にもたちゃしねえ。俺はあいつぁ二重人格なんじゃねえかと踏んでんだがねえ」
 いかにも人のいい親父さんといった感じの上中野だが、言うことは辛辣だ。さらには所長の菅原まで、
「まあ、篁くんは精神年齢五歳ですから」
 みんな好き勝手なことを言っている。
 どんな人なんだろうな。茉莉はあれこれ想像しながら、数日を過ごした。そして、十日目。
「たっだいま〜」
 明るい栗色の髪の男が転がるようにして事務所に入ってきたのは、昼休みの三十分前だった。
「あー、もう、疲れたよ〜。加賀ちゃんにはしぼられるしさあ」
「ああ、それは悪かったですねえ、篁くん。あとで加賀先生に連絡を入れておきますよ」
 加賀というのは菅原の友人で、やり手の弁護士だ。記録によれば、菅原事務所の仕事のほぼ半分は加賀からの紹介ということになっている。
「所長、話、通しておいてくれるって言ったくせにー。ほんとに、次からはちゃんとやってよね〜」
 茉莉はまじまじと、床にすわったまま文句を言っている男を見つめた。
 さらさらの茶色の髪、モスグリーンの瞳、日本人離れした彫りの深い顔立ち。なんだか、外国の俳優みたいだな。それが子供のような口調でぶちぶちと拗ねている。「二重人格」とか「精神年齢五歳」とかいうのは、こういうことか。
 茉莉の存在に気づいたのか、冬威はちらりと視線を上げた。
「あれえ、このヒト、だれ?」
「事務員の三剣くんですよ」
 菅原が紹介する。
「へーえ。まだウチに来てくれるようなヒト、いたの」
「三剣茉莉です。よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げると、冬威は赤ん坊がハイハイをするような態勢で茉莉の足元までやってきた。
「マリちゃん? かわいい名前だね〜」
 聞き間違えたらしい。
「いいえ、おれの名前は……」
「照れない照れない。オレ、そーゆーの好きだもん。そうかー、マリちゃんか。オレは篁冬威。よろしくね〜」
 まったく人の話を聞いていない。冬威はぴょこんと立ち上がると、
「これ、今度の仕事の資料ね。経費は適当に書き込んどいて。ついでに報告書も書いてくれるとうれしいな〜」
 目の前に、ぐちゃぐちゃの紙の束と数枚のディスクが差し出された。
「報告書って……」
 そんなもの、おれに書けるわけないじゃないか。
「じゃ、オレ、昼メシ行ってくるから」
 さっさと踵を返して出ていく。茉莉は呆然としてその背中を見送った。
「あいかわらずねえ」
 雛がため息をつく。
「今回は長期だったからなー。ディスクの中身、分析すんのが大変だぞ」
 藤堂は頭をかいた。
「画竜点睛を欠くってえのは、このことだな」
 上中野が紫煙を吐きつつ、言う。
「まあ、私も手伝いますから、がんばってくださいね」
 菅原がにこやかにそう言って、茉莉の背を叩いた。
 結局、おれがやるのか? ゴミとしか思えないような紙束を見下ろして、茉莉はがっくりと肩を落とした。



 そんなこんなで、菅原事務所のひと癖もふた癖もある面々の中、なんとか地道に仕事をこなして三カ月が過ぎようとしたころ。
 茉莉は偶然、冬威が昼食を食べているところに出くわした。
 調査員と事務員。ふだんはなかなか同じ時間に食事に出ることもないし、おせじにも生活に余裕があるとは言えない茉莉は、前日の残り物で弁当を作ってくることも多かったので、めったに外で昼食を食べることもなかった。
 たまたまその日は給料日だったのと、前日のおかずがなにも残らなかったため、近くの定食屋に出かけたのだ。
「篁さん」
 なんの気なしに、声をかけた。
「となり、いいですか」
「んー。ああ、マリちゃん。いいよ〜。いまからお昼?」
 のほほんとした声。マリちゃんという呼び名にも、もう馴れた。
「はい。今日はわりと早く伝票の整理が終わって……」
 椅子に腰を下ろそうとして、茉莉は絶句した。
 なにをやってるんだ、この男は。
 言うべきかどうかしばらく逡巡した挙げ句、茉莉は心を決めた。
「あの、篁さん」
「なーに?」
 もぐもぐと咀嚼しながら、冬威は顔を上げた。彼は深皿に盛られた料理を口に運んでいた。
「そういう食べ方は。もったいないと思うんですが」
 冬威は、定食のメニューを全部、ひとつの皿に入れていた。ご飯も味噌汁も煮魚も酢の物も漬物も。これでは、どう見ても残飯だ。第一、こんなことをして旨いわけがない。
「もったいないって……どーゆーことよ」
 不思議そうに、冬威は訊いた。
「ですから、その……それでは食べ物の味がわからないでしょう」
「わからなきゃいけないの?」
 真顔で訊ねられ、茉莉は答えに窮した。
 もしかして、味覚障害なのだろうか。それなら、まだ納得できる。もっとも仮にそうだとしても、この食べ方ではかえって回復を遅らせるだけだ。
「いけなくはないですけど、せっかくの料理ですから、わかるに越したことはないかなって……」
 冬威は首をかしげた。
「それって、なんか、ムダでしょ」
「はあ?」
「ごはんなんて、一日に必要な熱量と栄養素が摂取できればいいんだからさー」
 表情ひとつ変えずに、冬威は言った。
 あきれるより前に、茉莉は哀しくなった。この男はいままで、どんな暮らしをしてきたのだろう。
 両親がいないということは聞いていた。祖父が北欧の出身だということも。十二歳までは海外にいて、児童福祉施設のようなところで育ったらしいが、詳しいことはわからない。
 平和ボケした日本の、平和ボケした自分などにはわからない、つらい経験をいっぱいしたんだろうな。なんだか、親とケンカして意地を張ってる自分がばかばかしく思えてくる。
 茉莉の実家は老舗の旅館で、女将である母親は茉莉が帰郷するのを心待ちにしている。茉莉としては決められたレールに乗るのではなく、自分の力で自分の「城」を築きたいと思っているのだが、その考えは母にはなかなか理解してもらえない。
 いままで、自分は苦労してると思っていた。でも。
「あれえ。なんか、オレ、ヘンなこと言った?」
 冬威はモスグリーンの目で茉莉を見上げた。
「だったら、ごめんね〜」
 自分がなにを言ったのかもわかっていないだろうに。
 茉莉は小さく笑った。
「いえ、おれこそ、余計なこと言っちゃって……」
 茉莉は頭を下げた。
「お邪魔しました」
「どこ行くのよ」
「え、あの、あっちの席に……」
「となりに来るって言ったじゃないの」
「……いいんですか?」
「いいに決まってるでしょ。さ、すわってすわって〜」
 冬威はにこにこ笑いながら、椅子を引いた。
「マリちゃんは、どんな食べ物が好きなの?」
「おれは、べつに好き嫌いはないですけど」
「ふーん。じゃあ、オレとおんなじだねー」
 基準が違うと思ったが、この際それは言わないことにした。
「あ、そうだ。今度はさあ、一緒に晩飯、食べに行こうよ。もちろん、お酒もアリで。いいトコ、知ってるんだー。こないだ仕事で行ったんだけどねえ、おやじさんがワケありだから、きっと安くしてくれるよ〜」
 冬威はすっかり、その気になっている。茉莉は無意識のうちに頷いていた。