| 宿り木 by 近衛 遼 第二話 愛すればこそ? 世の中には、忘れたくても忘れられず、逃げたくても逃げられないことが多いものだ。 二十年以上生きていれば、それぐらいわかってる。つらいことも悲しいことも悔しいことも、それはそれでみんな意味のあることで、決して無駄ではない。茉莉はいままで、そう信じてきたし、実際そうやっていろんなことを乗り越えてきた。しかし。 今回だけは忘れたかった。逃げたかった。できるなら、きのう一日を消去したい。いや、それがムリなら、せめて昨夜の数時間だけでも。 目覚めたときには、冬威はいなかった。朝飯を作る気力もない。体が重くてだるくて、とくに下半身は神経が一、二本切れたんじゃないかと思うほど力が入らなかった。 やっとのことで洗面を済ませ、着替える。敷布の一部が明らかに汚れていたが、それを洗っている時間はない。とりあえず部屋の隅に蒲団を押しやって、家を出た。 朝日がことのほか眩しい。酔いはすでに覚めていたが、まるで二日酔いのときのように目の奥が熱かった。それというのも、あの男が調子に乗って、あんなに長いあいだ……するからだ。 茉莉は心の中で毒突いた。 冬威は、茉莉がその行為に対して肯定の言葉を言うまで、体をはなさなかった。何度も何度も、耳元で確認する。「まだ、ダメ?」と。 意地でも言うもんかと思ったが、結局は根負けしてしまった。早くその状況から逃れたかったし、あまりのことにまともな思考ができなくなっていたのかもしれない。 喘ぎながら「いいです」と口にしたのは、もう明け方近かったのではなかろうか。障子がうっすらと白くなってきていたから。 だいたい、どうして冬威はあんなことをしたんだろう。根っからのゲイというわけでもなさそうだ。あの男の言葉を信じるとすれば、余所でゆうべのような真似をしたことはないと言っていたし。 茉莉には想像もつかなかった。かといって、訊くのもイヤだ。冬威のことである。また、とんでもない理由を言いそうで恐い。 なにしろあの男は茉莉の体をはなしたあと、「ごちそうさま」と言ったのだ。食欲と性欲をいっしょくたにされていたらサイアクだ。 ほんとは、今日は仕事に行きたくなかった。あんなことがあったあとに冬威と顔を合わせたくはないが、ここで休んでしまったら、もう二度と事務所に行けなくなりそうな気がした。 せっかく見つけた職場である。給料はいいし、家からも近い。所長はじめ事務所のみんなも、いろいろクセはあるにしても、おおむね自分によくしてくれる。若干一名、常軌を逸した人物はいるが、それを理由に辞めるつもりはなかった。 根性だぞ、茉莉。 思いっきり元気よく、挨拶してやるんだ。あの男に対しても。 悲壮な決意で握りこぶしをして、茉莉は菅原事務所のドアを開けた。 「出張……ですか」 途端に、気が抜けた。 冬威は今朝早く、緊急の依頼で出かけたらしい。遠方ではないので、明日には戻ってくるだろうと所長の菅原は言った。 「いつもだと急な仕事にはダダこねる篁くんが、今日はめずらしくすんなり受けてくれてねえ。なにかいいことでもあったのかな」 ぎくり。 まさか菅原が昨夜の一件を知っているとは思わないが、あまりにもタイムリーな言葉に、茉莉の脈拍は一気に速くなった。 いいこと、ねえ。 そりゃ、あの男にとっては、そうだったかも。茉莉はため息をつきつつ、デスクに向かった。今日も一日デスクワークかと思うとげんなりしたが、自分は事務員。それが仕事なのだから、仕方ない。 なるべく腰に影響がないよう調節しつつ、茉莉はゆっくりと椅子にすわった。 いつもより、一日が長かった。 ようやく終業時間になって、茉莉はそそくさと事務所をあとにした。帰り道で商店街に寄って、夕飯のおかずを買う。惣菜屋と魚屋。今日はなにも作る気がしない。飯を炊くのも面倒なので、握り飯も買った。 空は茜色に染まっていた。あしたも晴れるな。川縁の道を、茉莉はぶらぶらと歩いた。 「あ、マリちゃん。おっかえりー」 家の前で、あっけらかんとした声がした。 ……だれか、嘘だと言ってくれ。こいつは今日、出張に行ってるはずじゃなかったのか?? 茉莉は買い物袋を握りしめ。その場に固まった。 「今日のおかずは、なーにかなっ」 目をくりくりとさせて、冬威は買い物袋を覗き込んだ。 「あれえ、なんだよ、これ。オレ、マリちゃんが作ったものが食べたいなー」 あまりにもいつも通りの成りゆきに、茉莉はぎりっと奥歯を噛んだ。 「あんたねえ……」 先輩だからといって、遠慮してなどいられない。 「自分がなにをしたのか、わかってますか」 「え、なにって……」 ぽかんとした顔。 「あんなことをしておいて、よくまたここに来られますねっ」 「ああ、きのうのこと」 冬威はうんうんと頷いた。 「喜んでくれた?」 だれが喜んだって? 茉莉は咄嗟に、冬威の頬を叩いていた。 「帰れ!」 冬威は頬を押さえることもせず、双眸を見開いている。モスグリーンのきれいな瞳。なぜ自分が叩かれたのかすら、わかっていないような。 茉莉は冬威の横を通って玄関に入った。ぴしゃりと扉を閉めて、鍵をかける。 一度そういうことがあったからって、おれはあんたのモノじゃない。都合よく使われるのはご免だ。 茉莉は買ってきた食料を卓袱台に放り出し、敷布や寝間着の洗濯を始めた。こんなものをそのままにして、飯が食えるか。 すっかり固まった汚れはなかなか落ちなかったが、先日、気紛れに百円ショップで買った洗濯板を取り出して、手の皮がむけるほどの勢いでごしごしとこすった。それから洗濯機に入れて、節約モードで約三十分。ようやく脱水も済んで干す段階になって、茉莉ははたと手を止めた。 もしかしたら、外にはまだあの男がいるかもしれない。再度、顔を合わせるのは気まずいが、敷布やカバーなどは家の中に干すわけにもいかないし……。 茉莉は意を決した。この長屋は物干し場が裏庭にあって、いったん玄関から外に出なければならないのだ。 そっと戸を開ける。玄関の前にはだれもいなかった。ほっとして、歩を進める。川に面した裏庭に回ると、月明りがゆらゆらと川面を照らしていた。 そういえば、もうすぐ満月だよな。洗濯籠を持ったま、しばらくぼんやりと夜空を見上げる。 さて、干すか。そう思いつつ物干しの方を見て、茉莉は心臓が飛び出しそうなほど驚いた。 「なっ……なっ……な……なにしてんですかっ」 声がひきつったのは、仕方ない。物干しの向こう側、ちょうど窓の下のあたりに、栗色の髪の男がひざを抱えてすわっていた。 「……待ってた」 「はあ?」 「待ってたんだよ。マリちゃんが出てくるのを」 「待ってたって……」 そりゃ、表に居座られるよりはいいけど。 「ごめんね」 ぼそっと、冬威は言った。茉莉は目を丸くした。 謝っている。ということは、一応、悪いと思ってるんだな。そう考えて茉莉が納得しようとしたとき、 「今度は、もっとマリちゃんが気持ちよくなるようにがんばる」 どさっ、と洗濯籠が落ちた。 「あーっ、どうしたの。土、ついちゃうよ〜」 冬威はすばやく立ち上がって、洗濯物を拾った。 「はい、どーぞっ」 にっこりと、籠を差し出す。もしかして、アレを許してもらえたと思っているのだろうか。 茉莉は混乱した。たしかに世間一般の常識など通用しない男だ。それでいままで、やってこられただけに始末が悪い。ふつふつと沸き起こる怒りを意志の力で抑えて、茉莉は籠を受け取った。洗い直しはあしたにしよう。それよりも、いまはこいつだ。 茉莉は冬威を見据えた。 「篁さん。おれはあんたを許せません」 「え……」 「きのう、あんたがしたことは犯罪です」 言いすぎかもしれないが、これぐらいでないとわからないだろう。 「犯罪?」 「そうです」 茉莉は視線を外さずに続けた。 「強制猥褻、もしくは暴行罪ですね」 「強制なんかしなかったし、暴力もふるってないよー」 へ理屈だ。 「そりゃ、ちょっとはイタかったかもしれないけど……」 ちょっとどころの騒ぎじゃないぞ。 「意識のない相手に手を出すなんて、おれが女だったら強姦罪ですよ」 「マリちゃんは男でしょ。なんの問題もないじゃん」 そこがモンダイなんだ。そこがっ! のれんに腕押し。糠に釘。馬の耳に念仏。……あと、なにかぴったりくる格言はなかったかな。 「じゃ、訊きますけど……どうして、あんなことしたんですか」 鬼門かもしれない。でも、ちゃんと訊いておかなくては。 「あんなことって、つまり、なんでオレがマリちゃんを抱いたのかってこと?」 ダイレクトに言うな。せっかく、ぼかしてるのに。 「そうです」 「そんなの、決まってるでしょ。好きなんだもん」 あっさりと、冬威は言った。茉莉はいくぶん引きつつも、 「……男とヤるのが?」 「へっ?」 冬威は素っ頓狂な声を出した。 「いや、その、だから……あんたは男を相手にするシュミがあるのかと……」 「ないよー、そんなの。きのうも言ったでしょ」 不本意そうに、冬威は頬をふくらませた。 「オレはねえ、マリちゃんが好きなの」 「はあ?」 一瞬、耳がストライキを起こした。 すき。……好き? だれが、だれを?? 「好きだから、抱いたんだよ。それが『犯罪』なわけ?」 冬威は不思議そうな顔をしている。茉莉は自分の許容範囲を大幅に超える内容に目まいを感じていた。 いくら好きだからって、そっちのシュミのないやつが男を抱くか、ふつう。 そこまで考えて、茉莉はふと気がついた。 そうか。「普通」じゃないんだ。この男は、なにからなにまで普通じゃない。だから、あんなことができた。 急に、可笑しくなった。ばかばかしい。そんなことは、とっくに承知していたはずなのに。トラブルプレイヤーで、ロシアンルーレットで、二重人格で。 「マリちゃん? どうしたの」 くつくつと笑い出した茉莉の顔を、冬威が心配そうに見ていた。 「いいえ、べつに……。ちょっと自分が情けなくなっただけです」 実感だった。 冬威が美味しそうにものを食べる顔が好きだった。満腹になって、うれしそうに横になる姿も。それを見ていると、自分も幸せになれそうで。 結局は、単なる自己満足だったのかもしれない。なにか特別なことでもしているかのような、薄っぺらな優越感。 「今日は、帰ってください。なにも作る気になれないんで」 素直に、茉莉は言った。 「じゃ、あしたならいいの」 「篁さん、出張の報告書は?」 「まだだけど」 「なら、あしたはおれ、それを書かなくちゃいけませんから」 このところ、冬威の報告書はほとんど茉莉が代書している。 「そっかー。じゃあさ、あさっては?」 なにやら必死になっている。わかったよ。付き合うよ。付き合えばいいんだろ。でも、飯だけだからな。 「いいですけど、酒はなしですよ」 「えーっ、そんなの、つまんない」 「酒が飲みたいんなら、余所へ行ってください」 これだけは譲れない。冬威は唇をとがらせつつも、こくりと頷いた。 「仕方ないなー。マリちゃんに嫌われたくないし」 「そう思うんだったら、もう寝込みを襲うようなマネはしないでくださいよ」 「あ、じゃあ、起きてたらいいの?」 揚げ足を取られた。ぐっと唇を噛む。そういう問題ではないのだが、今日はもうこれ以上、論戦を続けたくはない。 「おやすみなさーいっ」 明後日の約束を取り付けた冬威が、上機嫌で帰っていく。 茉莉は汚れた洗濯物を物干しの横に置いたまま、家に戻った。もう、なにもしたくない。さっさと買ってきたものを食べて、寝よう。 あしたから、またあの「精神年齢五歳」なやつと対峙しなくてはならない。油断大敵。技術的に思いっきりハイレベルだったので、うっかりしたらイケナイ世界に流されてしまうかもしれない。それだけは嫌だ。 茉莉は惣菜の袋を破って、鉢に盛った。握り飯を皿に並べ、麦茶をコップに注ぐ。 「いただきますっ!」 ばちっと手を合わせて、茉莉は猛然と箸を取った。 (THE END) |