| 宿り木 by 近衛 遼 第十四話 柊の木のように ACT2 調理器具は山ほどあるのに、食料も調味料もない。冬威の家の台所は、金物屋のようだった。 いや、例外がひとつ。塩だ。塩だけはあった。それも天然の最高級の品が。 美しい結晶を形成している粗塩。こんな上等なものを粥に使っていいのだろうかと躊躇したが、ほかになければ仕方ない。ほのかに甘みすら感じられるその塩を、ぱらぱらと粥に加えた。軽くかきまぜてから、味見をする。角のない、まろやかな味がした。 椀とれんげを二人分用意して、盆に乗せる。さらに布の鍋敷の上にできたばかりの粥を置いて、座敷に運んだ。 「できましたよー」 枕元にすわる。 「少しでもいいですから、食べてくださいね」 「なに言ってんの。たくさん食べるよ〜。マリちゃんが作ってくれたんだもん」 きっぱりと宣言して、冬威はれんげを手に取った。土鍋から粥をすくって口に運ぶ。止める間もなかった。冬威は目を白黒させて、はふはふと口を開けた。あわてて水を差し出す。 「はーっ……熱かった。舌、火傷しちゃった」 「あわてなくても、だれも盗りませんよ。お椀によそって、冷ましながら食べてください」 「わっかりました〜」 冬威は素直に返事をした。「鬼の霍乱」よりかわいいかもな。そんな考えが浮かぶ。が、いままでの経験からして、油断をしているとロクなことはない。茉莉は自分も粥を食べながら、注意深く冬威の様子を観察した。 「ごちそうさま〜。やっぱりマリちゃんの作ったものは、おいしいなーっ」 熱があるうえに舌を火傷していて、はたして味などわかるのか。その疑問はあったが、とりあえず土鍋は空になった。茉莉は枕元に置いてあった薬の袋を開けた。 「……どうして、こんなに残ってるんです」 おとといの夕刻に処方された風邪薬。一日三回、三日分。それがまだ、七包もある。 「え、ちゃんと飲んだよ〜。きのうも、おとといも」 「ちゃんとって、これ、日に三回、飲まなきゃいけないんですよ」 「え、そうなの? 知らなかった」 のほほんと、冬威は言った。 「じゃ、いままでのぶんも飲もうっと」 「そういう真似はやめてください!」 茉莉は薬を一包だけ渡した。 「薬は処方通りに飲むのが、いちばん効果があるんです。勝手に量や回数を調整しちゃダメですよっ」 昔、母親に言われたように、ぴしりと言い渡す。冬威は首をすぼめて、薬を受け取った。 「そんなに怒らなくてもいいじゃない〜。オレ、病人だよ? もっとやさしくしてよー」 「きちんと薬を飲んで、安静にして、治す努力をしている病人だったら、やさしくします」 ここは引かないぞ。茉莉は冬威を見据えた。 「わかった。ちゃんと飲む」 包を開けて、服用する。かなり苦いのか、嚥下するときに顔をしかめた。 「じゃ、おれ、片付けてきますから、横になっててくださいね」 いくぶんやさしく言って、立ち上がる。 「早く帰ってきてね」 まるで子供だ。茉莉は苦笑した。 「台所に行くだけじゃないですか。すぐに戻ります」 茉莉はいったん縁側に出て、そこに置いたままにしていた荷物を持って、ふたたび台所に入った。 巻寿司を水屋に仕舞い、鍋や椀を洗う。そうだ。イワシを外に吊るしておかないと。 せっかく持ってきたのだ。豆まきはできそうにないし、巻寿司も食べられなかったが、とりあえず節分らしくイワシぐらい吊るしておこう。たしか庭に、柊の木があったよな。 考えながら、また縁側から庭に出る。玄関に近い方に、柊の木が二本立っていた。 「ここでいいかな」 枝の太さを見る。茉莉の家の裏にある柊より、いくぶん葉が大きい。かなりの老木であるのか、葉の棘が滑らかになっていた。 柊は、若木のうちは葉の縁が牙のように鋭くて、老木になると棘がなくなって丸くなる。以前、母がよく「ほんまは私らも、そうなれたらええんやけど」と言っていた。年を重ねるごとに穏やかになっていけたらいいのに、と。 人間は逆だ。年をとるほどに、心が狭くなっていく。ずるくなっていく。 「マリちゃーん、なにしてるの〜?」 縁から声がした。冬威がまた、蒲団をかぶったまま立っている。 「中に入っててください。熱が上がりますよ」 少し大きな声で言う。冬威はむっつりとして、 「なかなか帰ってこないから、心配になって」 「いま行きますから……」 茉莉は足早に引き返した。 まったく、手間のかかるやつだ。お向かいのおかみさんが、孫の「後追い」が始まって、人の姿が見えなくなると大泣きするので、お嫁さんと二人がかりで面倒をみていると言ってたっけ。なんとなく、それに似てるかも。 「なにやってたのよー。あんなとこで」 同じ質問をくりかえす。 「イワシをくくり付けてたんです」 洗面所で手を洗いながら、茉莉は答えた。 「イワシ?」 不思議そうな顔。 そうか。この男は、だれでも知っているような季節の行事や常識といったものをまったく認識していない人間だった。茉莉は丁寧に、節分の習慣を説明した。 「えーっ、それじゃ、あのイワシは一晩ああやって吊るしておくの?」 「ええ、そうですよ」 「で、いつ食べるのよ」 「は?」 「冬だから、腐んないよね。朝ごはんのときに焼くの?」 鬼遣の行事だと説明したのに。 まあ、食べようと思えば食べられないことはないだろうが、一晩外にあったイワシなど、たいてい犬や猫に食われてしまっている。 「あしたの朝ごはんは、寿司とイワシかあ。楽しみだなーっ」 ちなみにこの会話は、蒲団を頭からかぶった冬威が、茉莉のあとをついて歩きながら為されていた。端から見たら、じつに異様な風景だろう。 「寿司とイワシが食べたかったら、おとなしく寝てなさいっ!」 茉莉は冬威を奥の部屋に押し込んだ。 「熱が下がらなかったら、またお粥ですからね」 「マリちゃんが作ってくれるなら、お粥でもいいけど……」 「治そうという気がないんですか?」 じろりと見下ろす。冬威は口元まで蒲団を引き上げて、 「治すよー。だから、やさしくしてよ」 またか。 こちらを窺うオリーブグリーンの瞳。まっすぐに向けられる感情。ずるいよ、あんたは。これじゃ、いい加減なことはできないじゃねえか。 「厳しさも、やさしさのうちです!」 精一杯、厳しく言う。冬威は目を細めた。 「そっかー。オレ、うれしい〜」 はいはい。よかったな。 「もう遅いですから、寝てくださいね」 「うんっ。おやすみなさーい」 冬威は目を閉じた。 ものの五分とたたぬうちに、すーすーと寝息が聞こえはじめた。茉莉はとなりに蒲団をもう一組用意して、横になった。 がたん。ばきばきっ! 夜半、尋常ならざる物音に、茉莉は蒲団を蹴とばして起き上がった。 なんだっ。いったいなにが起こったんだ?? 「篁さんっ、起きてくださ……い?」 高熱で伏せっているはずの、冬威の姿がない。 襖は外れて倒れているし、障子はまた三カ所ばかり桟が折れている。どう見ても、この壊れ方は中から外に向かって力がかかったものだ。ということは……。 茉莉はあわてて、庭に出た。月明りの中、ぐるりと視線を巡らせる。 ……いた。玄関横の、柊の木の下に。 「篁さん、どうしたんですか。そんな格好で……」 寝間着に下駄をつっかけただけの姿である。傍目から見ていても、寒い。 「猫の声がしたんだもん〜」 「猫?」 茉莉は首をかしげた。そりゃ猫ぐらいいるだろう。それがどうしたっていうんだ。 「オレ、もう心配で心配で……」 「なんの話です?」 「……そこかっ!」 すばやく横に跳んで、バタフライナイフを構える。ざっ、と植え込みの枝が動く音がして、猫が二匹、逃げていった。 「あー、よかった。無事だったー」 冬威は心底、ほっとしたような声を出した。 「……篁さん」 茉莉は脳天が爆発しそうになるのを感じつつ、言った。 「猫相手に、本気で殺気を放つのはやめてください」 こっちまで、総毛立ったじゃないか。 「え、だって、イワシ盗られたらやだもん」 「だからって、風邪ひいてろくに食事も摂れないような人が、寝間着のままで夜中に外に出ないでください! これ以上熱が上がったら、脳炎になりますよっ」 ついつい、声が大きくなる。 「もう熱、下がったよ〜」 「へっ?」 「お粥食べたあと、薬飲んで寝たでしょー。あれで、すっかりよくなったみたい。頭痛も寒気もしないし」 この格好で、寒くないのかよ。 茉莉はしげしげと冬威を見た。そういえば、先刻まで熱で潤んでいた目も、すっきりしたような気がする。 「ほんとに、下がったんですか?」 額に手をのばして、確かめる。熱くない。これならほぼ平熱だろう。あいかわらず、常識はずれの治癒力だ。二日も寝込んでいたとは、とても思えない。 「ね? 治ったでしょー」 冬威は茉莉の手を取って引き寄せた。背中に腕を回して抱きしめる。 「た……篁さん、あの……」 個人の家の庭とはいえ、屋外である。こんな時間にこんなところを通りかかる人もいないだろうが、できればこういうことはやめてほしい。 「んー。なに?」 「治ったのはわかりましたけど、ぶり返すといけませんから中に入りましょう」 「あ、そうだね〜。おなかもすいたし」 「はあ?」 「熱が下がったら、巻寿司食べてもいいって言ったよね〜」 たしかにそう言ったが、それは朝になってからの話で……。 「イワシも焼いてくれるんでしょ。オレ、一生懸命、守ったんだよー」 それって、高熱をおしてまで守るほどのモンか?? 茉莉の頭痛はますます激しくなっていく。 「台所に持っていっとくね〜」 鼻唄まじりに、冬威が家に戻っていく。 ……いまから、焼くのか。茉莉は眉間を押さえて、ため息をついた。 草木も眠る丑三つ時。郊外にある古い屋敷で、男ふたりが七輪でイワシを焼いていた。 「まーだかなー」 焼き上がりが気になって何度もひっくり返すものだから、冬威のイワシはすぐにぼろぼろになってしまった。 「魚は、表裏、一回ずつ焼けばいいんです。そうしないと身がくずれてしまうでしょ」 「でもマリちゃん、こないだは、しょっちゅう返した方がいいって……」 「それは、餅の話です」 ものによって、焼き方も違うのだ。手伝ってくれるのはうれしいが、かえって余計な手間がかかることもあって、疲れる。 「さ、できましたよ。どうぞ」 うまく焼けたのを、冬威の皿に乗せる。 「わー、いい色に焼けたねえ。いっただきまーすっ」 台所の上がり口にすわって、巻寿司とイワシとほうじ茶の夜食を摂る。 まあ、早めの朝食だと思えばいいか。夕食は粥だけだったので、正直なところ、茉莉も空腹を感じていたから。 「あー、おいしかった。ごちそうさま〜」 冬威は巻寿司四本とイワシ三尾とほうじ茶三杯を胃に収めて、しあわせそうな顔で手を合わせた。つい数時間前まで、高熱を出してうんうん言っていたとは思えないほどの食欲だ。 「おなかがいっぱいで、うれしいな〜」 「よかったですね」 「じゃ、一緒に寝よっか」 一緒に? 「快気祝い、ってことで」 茉莉は湯呑みを落としそうになった。なにが快気祝いだよ。おれは石鹸や洗剤じゃねえぞ。心の中で毒突く。 「縁側の雨戸、閉めてくるね〜」 嬉々として、冬威は立ち上がった。嫌になるほど、元気だな。あの様子だと、おそらく……。 これから起こることの予測がつくようになった自分が情けない。このまま勝手口から帰りたいが、そういうわけにもいかないだろう。そんなことをしたら、次の夜まであの男がどんな気持ちで過ごすかも、想像できるから。 「マリちゃーん、襖も直したよ〜」 座敷から声。はいはい。わかったよ。いま、行きますって。そんなに何度も確認しなくていい。 逃げたいと思ってたって、逃げない。忘れたいと思っていても、忘れない。だから、そんなに懸命に求めないでほしい。おれは、おれの方法でしかあんたに応えられないんだから。 あんたの笑う顔が好き。あんたの笑う声が好き。 柊の木みたいに、丸くなっていけたらいいのに。 (THE END) |