宿り木  by 近衛 遼




第十五話 ねばり強い愛

 その日、篁冬威は長期の仕事を無事に終えて二十日ぶりに事務所に顔を出した。そして、その夜。
「今日のおかずはなーにかなっ」
 例によって例のごとく、茉莉の家の玄関を叩いたのである。


 ピー、ピー、ピー、という音が台所から聞こえる。茉莉はゆっくりと目を開けた。ああ、飯が炊けたな。タイマーをセットしておいてよかった。とりあえず、飯さえあればなんとかなる。
 霧がかかったようになっている頭でそこまで考えたとき、ゆさゆさと背中を揺らされた。
「ねえねえ、マリちゃん。おなかすいたよー」
 炊飯器のお知らせ音で、横にいた男も目を覚ましたらしい。ちくしょう。もう少し寝ていようと思ってたのに。
「いまの、ごはんが炊けたよーっていう音でしょ」
 さらに肩を揺すりながら、言う。
「炊き立てごはんには、梅干しと焼き海苔だよねっ。あ、とろろ昆布もいいなあ」
 勝手に朝食のメニューを決めるんじゃねえよ。
「あと、卵焼きと塩シャケとワカメの味噌汁と……」
 そんなにたくさん、作れるかっ!
 そう叫びたいのをぐっとこらえる。だめだ。いまこの男を怒らせたら、それこそ足腰立たなくなるまで責められてしまう。
 昨夜は、二十日ぶりだし無事に帰ってきたのだからと、オーダー通り「フルコース」を提供した。それだけでも、体は油切れした機械のようになっているというのに、このうえ挑まれてはたまらない。
「……篁さん」
 腰の疼痛と関節痛をこらえつつ、なんとか上体を起こした。
「んー。なーに?」
「悪いんですけど、卵もシャケも切らしてまして」
「えーっ、そんなあ」
 途端に、しゅんとした顔になる。この顔に弱いんだよな。でも、ないものは仕方ない。梅干しや海苔はあるし、味噌汁もすぐに作れる。たしか、きのう向かいのおばさんにもらった白菜の漬物もまだ残っていたはずだ。飯は五合炊いてある。盛大に丼で汁かけごはんでもしてもらうか。
「そのかわり、味噌汁をたくさん作りますね」
 鶴丸印の両手鍋の、いちばん大きなやつで作ってやる。
「うんっ。じゃあ、ワカメいっぱい入れてね〜」
 また、ころりと表情が変わる。ちょっとしたひと言で。
「それから、白ネギのみじん切りも」
 本当に、注文が細かくなったな。苦笑しつつ、立ち上がる。すぐに出られるように着替えてから、茉莉は台所に立った。
 梅干し、焼き海苔、ワカメと白ネギの味噌汁。冷蔵庫を開けて、材料を取り出す。
「ああ、納豆もありますよ。食べます?」
「え、納豆? 食べる食べるっ」
 卓袱台の前でひざを抱えてすわっていた冬威が、手を上げて答えた。
「納豆を食べると、頭がよくなるんだよねっ」
 そういえば、最初に納豆を出したときにそんなことを言ったっけ。あのときも「納豆ー、なーっとうなっとう〜」と鼻唄まじりに歌っていた。まったく、これが危ない橋ばかりを渡っている敏腕の調査員だとは、いまだに信じられない。
「いい匂いだねー」
 肩越しに、冬威の顔。
「あっ……危ないじゃないですか」
 いけないいけない。考え事をしていたので、冬威の気配を察することができなかった。
「火を使っているときに、いきなりうしろに立つのはやめてください。味噌汁、ひっくり返したらどうするんです」
「すっごく悲しい〜」
「悲しいとか悔しいとかじゃなくて……火傷するでしょーが」
「あ、そっか」
 いま気づいたように、言う。
「ごめーん。これから気をつけるね〜」
 なんだ。今日は意外と素直だな。もしかして、ゆうべのフルコースが利いているのかも。
 ……がんばったもんな、おれ。自分で自分を誉めてやりたいぐらいだ。
 そうこうしているうちに味噌汁も出来上がり、ふたりは卓袱台の前にすわった。
「いっただきまーす!」
 ぱちっと手を合わせる。丼飯に箸をのばすと思いきや、納豆を入れた小鉢を手にした。いたずらを仕掛ける子供のような顔で、にんまりと笑う。
「マリちゃん、知ってる?」
「……なんですか」
 いくぶん、腰を引きぎみに答える。
「納豆って、五百回混ぜるとすごーーーくおいしくなるんだって」
「はあ?」
 五百回?? なんの冗談だ、それは。
 たしかに納豆はよく混ぜた方がいいが、五百とはケタが違う。五十回で十分だぞ。
「それに、五百回混ぜると納豆の栄養分がぜーんぶ出てくるんだよ〜」
「はあ……そうですか」
「じゃ、いっきまーーーーすっ」
 箸を握り締め、冬威は猛然と納豆の小鉢に向かった。
 カシャカシャカシャカシャ……
 速い。肉眼ではほとんど見えない。
「でーきたっ」
 ほぼ三十秒後。小鉢の中の納豆は、こんもりと盛り上がっていた。クリーム色の泡の中、納豆が浮いているように見える。
「ほらっ、マリちゃん。見て見て、この糸!」
 つつつつーーーーっと、絹糸のような光沢のある糸が伸びていく。
「これで、もっともっと頭がよくなるよねっ」
「……そう……ですね」
 コメントをする気力もない。
「でも、これだけじゃダメなんだよなー」
 なんだ。まだなにかあるのか?
 箸を持つ手が震える。冬威はおもむろに醤油を小鉢にたらし、
「醤油を入れて、さらに百回!」
 カシャカシャカシャ……今度はほんの十秒ほどで終わった。
「これで、完璧!」
 もう、なにも言うまい。
 どこで聞いてきたか知らないが、冬威にとってはこれが最高の食べ方なのだ。どろどろで、ぶくぶくで、とんでもないシロモノだが。
「はい、どーぞっ」
 どろり。クリーム色の泡だらけの物体が、茉莉の茶碗に入れられた。
「究極の納豆ごはんだよ〜」
 このうえなく、しあわせそうな顔。茉莉は茶碗を取った。
「……いただきます」
 半ば罰ゲームの心境で、茉莉はそれを口にした。
「……………」
「ねっ、ねっ。おいしいでしょー」
 オリーブグリーンの瞳が、きれいに細められた。
「……はい。おいしいです」
 茉莉は感想を述べた。嘘偽りのない感想を。
「やったあ。マリちゃんに喜んでもらえて、うれしいな〜」
 言葉通り、心底うれしそうな顔で言う。茉莉も思わず笑みを返した。
 なんだか、キツネにつままれたみたいだな。箸を運びつつ、思う。これはたしかに旨い。まろやかで、香りがよくて。
 その間に、冬威は自分のぶんの納豆をかき混ぜていた。五百回プラス百回、計六百回。目にも止まらぬ速さでスフレ状の納豆ができあがった。丼飯にぶっかけて、ぱくぱくと食べ始める。
 こうして。
 早春の光が差し込む六畳間で、男ふたりの朝食が妙に和やかに進んでいった。


(THE END)