宿り木  by 近衛 遼




第十四話 柊の木のように

ACT1

 それにしても、見事にきれいな台所だな。茉莉は土鍋をコンロに乗せて、そう思った。
 台所というよりは厨房といった方がいいかもしれない。食器も調理器具も最高のものが揃っている。どう考えても、冬威が自分で料理を作るとは思えないのだが。
 だれか作ってくれる人でもいるのかな。ふと、そんなことを考える。
 いや、でも。
 茉莉は積み上げられた鍋を見て、その考えを改めた。
 真新しい鍋。油のひとつも飛んでいないコンロ。乾いた流し台。
 この場所でまがりなりにもなにかを作ったのは、もしかしたら自分がはじめてかもしれない。そういえば以前、冬威は自宅で食事をしないと言っていた。あれは言葉のあやではなかったのだ。
 そうだよな。あんたが言うことは、全部事実。言葉を飾ることも、ごまかすこともしない。
 茉莉に対しても、そうだった。冬威の発する言葉は、いつもまっすぐだ。逃げも隠れもできないうちに、胸を突き抜ける。
「好きなんだもん」
 なんの迷いもてらいもなく、冬威は言った。だから抱いたのだ、と。
 本当はごまかしたかった。忘れたかった。笑い話にしてしまいたかった。
 自分はそうやって生きてきた。つらいことも苦しいことも、たいしたことじゃないと言い聞かせて、無理矢理にでも忘れて。でも。
 そんな小細工は、冬威には通じなかった。
「今日のおかずは、なーにかな〜?」
 夕刻、わくわくした顔をしてやってくる。
「マリちゃんのごはんは、ほんとにおいしいね〜」
 ほくほくと、うれしそうに箸を運ぶ。
「おなかもいっぱいになったことだし、そろそろ寝よっかー」
 そして、当然のように茉莉を誘う。そんな関係が、もうずいぶん続いていた。それなのに、いままで茉莉は冬威の家を訪れたことがなかった。
 郊外の一軒家。生け垣に囲まれた古い木造家屋だった。
 藤堂健の話によると、その家は築五十年。なんでも新築のころから、やたらとポルターガイストのような現象が起きていて、次々と持ち主が変わっているらしい。
 その家を冬威が買ったのは、二年ばかり前。理由は「安いから」。
 たしかに飛地のような場所だし、「呪いの屋敷」だということで、値段は相場の半値以下だったという。
「ま、あいつならユーレイの方が遠慮するだろうし」
 藤堂の見解に、茉莉も異論をはさむ気はない。
 そのお化け屋敷に、いま、自分はいる。冬威のために粥を作りながら。


 節分の日の夕刻。
 茉莉は豆とイワシと寿司を持って、冬威の家に向かっていた。
 前日、冬威は風邪をひいたと言って欠勤した。そして、今日も。
 自分が菅原事務所に勤めだしてから、冬威が病気で休んだことは一度もない。仕事上の怪我で入院したことは何度もあったが。
 鬼の霍乱だな。茉莉は思った。
 あの男が二日続けて休むなんて、よっぽどひどい風邪なんだろう。巻寿司など食べられないかもしれないが、そのときは粥でも作ろう。念のために米も持ってきた。
 バス停から歩くこと三十分あまり。ようやく冬威の家が見えてきた。
 なるほど。たしかに、なにか棲みついてそうな屋敷だな。茉莉はおそるおそる、あたりを調べた。
 とりあえず、庭に回ってみよう。そろそろと歩を進め、縁を窺う。障子の向こうの様子はわからなかった。声をかけてみる。
「ごめんください」
 返事はない。
「こんにちはー、篁さん。三剣です」
 やはり、いらえはない。やはり玄関から入ろうと庭を横切りはじめたとき。
 ばきばきっ。どすん。
 大きな音がして、縁からなにかが落ちてきた。
「え……」
 蒲団だ。いや、蒲団にくるまった、物体。
「なっ……なんやってんですか!」
 茉莉は叫んだ。「それ」は、蒲団をかぶったまま障子を突き抜けて、縁から転げ落ちたらしい。
「あーっ、マリちゃんだあー」
 蒲団から顔だけ出して、冬威がとぼけた声を出した。
「夢じゃないよねえ。痛いもん。ほんとうにほんものの、マリちゃんだよね」
 まだ寝惚けてんのか、こいつは。
 茉莉はつかつかと冬威に近寄った。
「いつまですわってんですか。ほら、立って……」
 冬威の手をとる。異様に熱かった。熱が下がっていないのだ。
 茉莉は荷物を縁に置いて、冬威の背を支えた。
「中に入りましょう。着替えた方がいいですよ」
 寝間着が汗を吸っている。このままでは、ますます熱が上がってしまうだろう。
 茉莉は縁から座敷の中に入った。広い座敷に、ぽつんと蒲団が敷いてある。枕元に水差しとコップ。違い棚になにかの写本と香炉。襖にはりっぱな山水画が描かれていたが、ほかに家具や調度品はない。
 障子が壊れてしまったので、とりあえず奥の間に蒲団を移動させて冬威を寝かせた。
「こっち、暗くてやだよー」
「我慢してください。それにしても、なんで障子を突き破ってきたりしたんですか」
「だって、マリちゃんの声が聞こえたんだもん」
「はあ?」
「オレ、さっきまで夢を見てたんだよ。マリちゃんがごはんを作ってくれる夢」
 いつものことじゃないか。夢に見るほどのことか。茉莉はため息をついた。
「けど、目が覚めたらマリちゃんはいないし、熱で視界は銀色だし頭は痛いし、散々だなーって思ってたら、声が聞こえて。これは幻聴じゃないって思って、飛び出したんだー」
「蒲団ごと、ですか」
「寒くて、ずっと蒲団にくるまってたから」
 なるほど。それでそのまま飛び出して、蒲団の縁を踏むかなにかして障子に激突したのだ。
「あー、でも、うれしいな〜」
 冬威は頬を紅潮させて呟いた。
「マリちゃんが来てくれて」
 それって、反則だぞ。
 茉莉は先刻とは意味の異なるため息をついた。
「だいぶ熱があるみたいですね」
「薬飲んだら、いったん下がったんだけどねー」
 上がりばなに解熱剤を飲むと、ぶり返すことが多い。しばらくは様子を見るか。
「ところで篁さん、ごはんは?」
「ええと……どうだったっけ。覚えてないなー」
 やっぱり。この様子だと、二日前から水や薬しか口にしていないかもしれない。
「だったら、粥でも作りますね。台所をお借りします」
「え、でもマリちゃん、なにか持ってきてくれたんでしょ?」
 高熱を出しているというのに、めざとい。
「あれは、節分の巻寿司です」
「じゃ、オレ、巻寿司にする」
「だめです」
「えーっ、どうしてよ」
「寿司はあしたでも食べられますから、今日はおれの言うことをきいて、粥を食べてください」
 二日も絶食している病人に、常食は勧められない。
「あした、熱が下がっていたら、一緒に寿司を食べましょう」
「……わかったよ」
 殊勝な様子で、冬威は頷いた。茉莉は持参した米を持って、台所に向かった。

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