宿り木  by 近衛 遼




第十三話 ビンボー人、餅を焼く

 きのうは、小正月だった。三剣茉莉は正月飾りを神社に納め、小豆粥を炊き、鏡開きをした。
 例年なら、早々に餅は冷凍してしまうのだが、今年は餅にカビが生えるまでに消費できる見込みがあったので、あえて裏庭のコンテナに仕舞っておいた。そして、その予想は的中した。
「こんばんはー」
 いつもの声とともに、冬威がやってきた。
「今日のおかずはなーにかなっ」
 これまた、いつもの台詞。
 茉莉は七輪と餅を差し出し、冬威に「お手伝い」を頼んだのだった。


 俗に、「魚は殿様に焼かせろ。餅は貧乏人に焼かせろ」と言う。
 魚はよく焦げ目がついてから一回だけひっくり返せばいいのに対して、餅は小まめに返さなくては美味しく焼けない。一刻でも早く食べたいと、しょっちゅう手を伸ばしてひっくり返すと、結果的にうまく焼けるという寸法だ。
 それを考えると、この冬威は間違いなく「貧乏人」である。郊外に屋敷を構えていようとも、ボーナスがケタ違いであろうとも、あるいは仕事上の弱みを握っているスネに傷持つ人々からの付け届けが後を絶たないにしても。
「まーだかなー」
 鼻唄を歌いながら何度も何度も餅をひっくり返す。まんべんなく、きれいに餅が焼けていく。
「あーっ、マリちゃん。ふくらんできたーっ」
 まるで宝物でも見つけたかのように、冬威は叫んだ。
「お皿に取ってください」
 コンロの前でぜんざいとすまし汁の用意をしていた茉莉が答える。
「はーいっ。取ったよ〜」
 うきうきと、冬威は六畳間に上がってきた。いままで冬威は、三和土に七輪を置いて餅を焼いていたのだ。
「食べてもいーい?」
 卓袱台の前にすわるやいなや、冬威は言った。焼き海苔やしょうゆやかつおぶしは、すでに卓に用意してあった。
「いいですよ。いま、吸い物を持っていきますから……」
 コンロの火を切った直後、六畳間から異様な声がした。
「どうしましたっ?」
 このところ、食生活に関しては比較的まっとうになってきたと安心していたのだが、なんといっても相手は冬威である。精神年齢五歳であることに変わりはない。まさか、餅をのどに詰まらせたんじゃないだろうな。
「篁さん……」
「はーっ……あつかった〜」
 犬のように舌を出しながら、冬威は訴えた。どうやら、舌を火傷したらしい。
「あんたねえ……」
 焼き立てなんだから、そりゃ熱いよ。
 いつものことながら、脱力する。わざとやってるんじゃねえだろうな。子供が親の気を引くためにいたずらをするのはよくあることだが。
 ちらりと、そんな考えがよぎる。
「マリちゃ〜ん」
 なにやら、すがりつくような目。茉莉はため息をついた。
「ちょっと待っててください。お水、持ってきます」
「あいー」
 不安げな顔が、途端に変わる。心底、ほっとしたように。
 わざとでも、ま、いいか。
 水を汲みながら、茉莉は思った。手間はかかるが、仕方ない。それでこの男がしあわせでいられるなら。
 このところ、甘くなったように思う。なぜかはわからないけれど。
 だまし討ちのようにして始まった関係なのに、どうして自分はそれを受け入れてしまったんだろう。たしかに、先にこの男に近づいたのは自分だ。まともなものを食べていなかったこの男に、少しでも食べ物の与える温かさや和やかさを知ってほしかった。
 それだけだった。最初は、ただそれだけだったのに。
「はい、どうぞ」
 コップを差し出す。
「いただきます」
 にっこり笑って、冬威はそれを受け取った。ごくごくと、おいしそうに飲み干す。
「あー、びっくりした。外側はたいして熱くなかったんで、大丈夫だと思ったのになー」
 皿に乗せた餅に、ふうふうと息を吹きかける。子供のように一生懸命な顔で。
 熱いものを熱いうちに、冷たいものを冷たいうちに。
『それが、最高の贅沢や』
 茉莉の母は、よくそう言っていた。
『どんなご馳走でも、冷めたもんや温うなったもんは美味しないからなあ。そんな食べ方は、作った人に対しても失礼や』
 味噌汁にしても天ぷらにしても焼魚にしても、母は必ず、皆が食卓に着く時間を計算して作ってくれた。
 子供のころ、つい遊びに夢中で家に戻るのが遅れたとき。冷めた味噌汁とご飯を卓に置いて、母は言った。
『今度から、わけもなく約束の時間に遅れたら、あんたのごはんはずーっと残飯やで』
 いまでも覚えている。真剣な母の顔を。
 なんとなく似てるよな。茉莉は思った。自分が冬威に食事を作るときの姿勢は、母と同じだ。
 だれかのために作る食事は、きっと単なる「食物」ではない。そこに思いが付加されるから。
「マリちゃ〜ん」
 また、なにやら情けない声が聞こえた。
「なんです?」
 吸い物椀を並べつつ、茉莉は訊いた。
「固いよー」
「はあ?」
「お餅……固まっちゃった」
 両手に餅を握り締め、うるうるとこちらを見ている。どうやら冷めるのを待っているうちに、逆に固くなってしまったらしい。
「……しょうがないですね」
「えーっ、これ、もう食べられないの?」
「磯辺餅にはできませんけど、雑煮かぜんざいかあべかわ餅にすれば美味しいですよ。どれにします?」
 しっかり、きなこも用意してある。冬威はこれ以上はないというぐらい、真剣な面持ちで考え込んだ。
「うーん。どれも捨て難いなー。ひとつにしぼるなんて、ムリだよ」
 餅をにらみつけて、さらに考える。
「あっ、そーだ」
 冬威は、ぽん、と手を打った。
「餅は三つあるんだから、一個ずつ全部ってことで」
 嬉々として、言う。予想通りだな。茉莉は苦笑した。いちばん、手間のかかるオーダーをしてくれて。
「わかりました。いまから作りますから、待っててください」
「やったあ。じゃ、マリちゃんが雑煮とぜんざいとあべかわを作ってるあいだに、磯辺餅用のぶんも焼くねー」
 いそいそと、七輪の前に戻る。冬威はふたたび七輪で餅を焼きはじめ、茉莉はコンロの前で調理にいそしんだ。

 大寒も近い、寒い寒い冬の夜。
 男たちは、磯辺餅と雑煮とぜんざいとあべかわを前に、温かな食卓を囲んでいた。


(THE END)