| 宿り木 by 近衛 遼 第三話 最大多数の最大幸福 結局、またこういうことになってしまった。 三剣茉莉は情けなさと自己嫌悪に頭を抱えながら、むっくりと起き上がった。 「……どーしたの〜?」 となりで寝ていた男が、寝惚けた声で訊く。 「水、飲んできます」 無愛想にそう言って、茉莉は蒲団から抜け出した。 下肢がだるい。前回の教訓を活かして、なるべく短く済むように努力したつもりだったが、やはりダメージは大きかった。なにを血迷ったのか、あの男は前にもまして複雑な手練手管を駆使してくれたのだ。まったく、それを受ける身にもなってほしい。 まずい。これは、マジでまずい。 これじゃまるで、おれはあの男の妾じゃないか。いや、妾ならまだマシだ。月々の手当がもらえる……って、そういうモンダイじゃないか。どうも思考回路が混線している。 あの男は、自分のことを好きだと言った。好きだから、抱くのだと。しかしそれを容認してしまっていいのだろうか。 「難しい顔しちゃって〜」 耳元で、声。茉莉は、ばっとその場から飛びのいた。 「いきなり、なんですかっ」 なんてやつだ。気配の「け」の字も感じさせずにここまで来るなんて。 「だーって、なかなか帰ってきてくれないから、心配になって」 心配ってなあ……。奥の八畳から台所まで、直線距離で三メートルだぞ。 「どこにも行きゃしませんよ。ここは、おれんちなんですから」 茉莉は嘆息した。いい加減にしてほしい。もう十分に付き合ったじゃねえか。 「なんだか、マリちゃん、ご機嫌ななめ?」 「……そんなこと、ないですよ」 一応、否定しておく。これ以上ゴネられたら厄介だ。 「ごめんね」 しゅんとして、篁冬威は言った。 「今日はうまくできたと思ったんだけどなー」 阿呆か。思わず、そう言いそうになった。いけない、いけない。相手はトラブルプレイヤーでロシアンルーレットなやつなんだ。うっかり地雷を踏んだらアウトだぞ。 しかし、どうしてそっちにばかり思考が行くんだろう。心配しなくても、あんたは上手くやったよ。おかげでこっちは、頭も体もクタクタだ。 「まだ早いですし、もうひと眠りしたらどうです」 茉莉は脱力感と戦いつつ、なんとか冬威を寝かしつけた。 冬威が茉莉の家で食事を摂るようになって、二カ月ちかくたつ。そして、最初に関係をもって、半月。 寝込みを襲われるようにして同衾した最初の夜から十日あまりは、なんとか無事に過ごしてきたのだが、ついに昨夜、二度目の関係を結んでしまった。 「マリちゃんは、オレが嫌いなの?」 ずいっと眼前に迫られて、真顔で言われると困る。 「違うよね?」 期待を込めた眼差しを見ると、それを否定する気が起きなくなる。だいたい自分は、嫌いなやつに飯を作ってやるほどお人好しではない。もっとも、体を提供するほどこの男が好きかというと、はなはだ疑問なのだが。 自分の中で、この男は「子供」だった。ほしいものをストレートに「ほしい」としか言えない子供。それを全否定するほど、茉莉は悪人になれなかった。 冬威が本当に子供だったころには、おそらくそういう要求ができなかったのだと思う。 詳しいことは知らないが、この男は十二の年まで海外の児童福祉施設のようなところにいたらしい。その施設の環境が、必ずしもよくなかったのだろうと茉莉は推測していた。だから、こんな情緒に欠陥のある人間になってしまったのだ、と。 その情緒欠陥児で日常生活不適応者で、倫理もへったくれもない男に見込まれたのが運の尽きだというわけか。 朝、上機嫌で帰っていく冬威を見送りながら、茉莉は次回の防御策を懸命に考えていた。 結論。 食事が終わったら、すぐに帰ってもらおう。 ここに至っては、飯を作るのは仕方ない。自分から仕掛けたことなのだから。しかし、そのあとのことは管轄外だ。 もうひとつの欲求が起こったときには、それなりの場所に行けばいいのだ。繁華街にはその類の店がたくさんある。冬威ほどの容姿なら、きっと相手はよりどりみどりのはずだ。 計ったように三日後に夕飯を食べにやってきた冬威に、その旨を告げる。すると、例によって「オレが嫌いなの〜?」と迫ってきた。茉莉はさりげなく茶碗を片づけつつ、 「好き嫌いの問題じゃないです。ただ、ああいうことはおれじゃなくてもいいと思うんですけど」 「オレは、マリちゃんが好きなのに〜」 駄々っ子のように、冬威は言う。 好きだから、相手が男でも抱くという発想を疑問に思わないらしい。いまさら驚きはしないが、やはりここは世間の常識を教えておいた方がいいだろう。 茉莉は卓袱台の前に正座して、重々しく言った。 「ふつう、どんなに好きでも、男同士でああいうことはしないもんです」 「えーっ、どうして」 だから、いちいちそんなことを訊かないでほしい。理由なんか、あるか。それが「最大多数の最大幸福」なんだ。 「じゃあ訊きますけど、あんたはどうして、おれが好きなんですか」 逆に、質問してみる。飯を作ってくれるから、なんて言うなよ。 「マリちゃんのごはん、美味しいんだもん」 ……マジかよ、おい。 「それに、もちろんマリちゃんも〜」 訊くんじゃなかった。 「オレさあ、はじめてなんだよねー」 「え?」 「だれかと『一緒に寝たい』って思ったのって」 冬威はじっと茉莉を見つめた。 「いままでは、べつにだれでもよかったんだけどね〜」 爆弾発言だ。いや、でも、この男ならそれもアリかも。 「だからさあ、オレ、マリちゃんに喜んでもらいたくて、いーっぱい勉強したんだよー」 「べっ……勉強?」 なんの勉強だ。何の! 「そのテの雑誌読んだり、そーゆーヒトとメル友になったりして、いろいろ情報仕入れてさー」 メル友だと? まともにファクスも送れないくせして、そんな不毛なことだけはできるのか。ホモダチとメール交換してる暇があったら、報告書の一枚でも書きやがれっっ。 茉莉の頭の中では、罵詈雑言の嵐が吹き荒れていた。 「あー、マリちゃん、怒った?」 心配そうに、冬威は言った。 「ごめんね〜。マリちゃんがいるのに、ほかのヒトと濃ゆーいメールしたりしちゃダメだよね。オレ、これからはマリちゃん一筋よ〜」 一筋じゃなくていい。なんなら、そいつとしっぽりやってくれたっていいのだ。飯は食わせてやるから、あっちの方は余所で済ませてほしい。 そんな心の叫びを知るはずもなく、冬威はずい、と茉莉に近づいた。 「だからさ〜。……寝ようよ。ね?」 囁くような声。形のいい手が茉莉の腰に回る。 ぞくりと背中が震えた。たった二回でも、体はしっかり冬威を覚えている。 だからイヤなんだ。触れられたら、こうなるのがわかってたから……。 そのまま押し倒された。モスグリーンの瞳が近づいてくる。まったく、きれいな顔して、やることはメチャクチャだ。 最大多数の最大幸福なんて、この男に期待しても無駄だった。この男は、自分の幸福しか考えていないんだから。 「……奥に行きませんか」 せめて、蒲団ぐらいは敷きたい。 「うんっ。行こ行こっ」 やったあ、という声が聞こえてきそうな顔だ。抗う気力も失せて、茉莉はため息をついた。 きっと今日もおれは、情けなさと自己嫌悪とともに、説明のつかない充足感を味わうのだろう。できるだけ、明日に響かないようにしてほしいんだけどな。 淡い期待をいだきつつ、茉莉は冬威とともに八畳間に入った。 (THE END) |