宿り木  by 近衛 遼




第四話 懐かしの南の島

 ある日の昼休み。菅原事務所には、事務員の茉莉ひとりが残っていた。
 所長の菅原海里は、旧知の友である弁護士の加賀隆一とともに、一流ホテルで開かれている某政党のパーティーに出席している。
 元金庫破りで、いまは愛妻と愛娘のためにマイホーム獲得を目指している藤堂健は、とある会社の不正所得の証拠を掴むべく飛び回っており、元スリの長瀬雛は銀座のホステス引き抜きに関する裏情報を集めるために、一カ月前から高級クラブのホステスとして働いていた。
 最古参の上中野景虎は、暴力団関係の裁判に絡んで身を潜めている人物の説得に出向いていて、雛いわく「トラブルプレイヤー」の篁冬威は、その暴力団の幹部の身辺調査にあたっている。
 まかりまちがったら鉄砲玉が飛んでくるような現場にいるはずなのに、冬威は毎朝律儀に事務所に顔を出し、
「マリちゃん、オレ、今日もがんばってくるねっ」
 と、茉莉の手をがしっと掴んでから出ていく。これはもう、ここ二週間ばかりの恒例となっていた。
 傍目から見れば、とんでもなく異様な光景のはずなのに、ここの連中はだれもそんなことは気にしないらしい。
「篁くんはあいかわらず元気ですねえ」
 所長がのんびりと茶をすすりながら言うと、藤堂がボールペンをくるくると指先で回しつつ、
「篁元気で留守がいい、ってねー」
 まったく揃いも揃って、いい性格をしている。
 午前中に、今日のノルマはおおかた片づいてしまった。午後はヒマだな。
 握り飯を頬張りながら、茉莉は窓の外をながめた。ちなみに、今日は弁当を持ってきている。おかずは、ゆうべの残りの煮物と近所からもらった昆布の佃煮と卵焼きだ。
 帰りに商店街に寄らなくっちゃ。今日あたり、冬威が晩飯をタカりに来るはずだから。
 つらつらと、茉莉は考えた。今夜はなにを作ろうか。そろそろレパートリーも尽きてきた。
 自分だけなら三日続けてカレーを食べても平気だし、適当に惣菜を買って帰ればいいのだが、いかんせん、週に二回は菅原所長いわく「精神年齢五歳」、実年齢は……いくつだったか定かではないが、少なくとも自分よりは年長の男が、「今日のおかずはなーにかな〜?」とやってくるのである。
 前もって言ってくれれば準備もできるのだが、ほとんど抜き打ちのようにして来るので、ときには三日目のカレーだったり、煮込みすぎて味が濃くなった豚汁だったりする。さすがにそういう残り物を出すのは気が引けて、外に食べに行こうとすると、「オレ、マリちゃんのごはんがいい〜」と譲らない。
 まったく、余計なことをしなければよかった。
 すでに千回は後悔している。あの男に、飯なんか作ってやるんじゃなかった、と。
「美味しいね〜」
 そう言って、ほくほくと笑う顔が好きだった。本当に幸せそうに、子供のように笑うのだ。あれに、騙された。
 いや、本人は騙す気などなかったのかもしれないが、こっちとしては一生の不覚だった。あの顔を見てしまったから、いまだにヒナにエサを与える親鳥よろしく、自分よりタッパのある男にせっせと飯を作っている。
 前回は肉じゃがだったっけ。このところ肉が続いたから、そろそろ野菜中心の料理にしよう。そういえば、特価のときに買ったヒジキを水屋に入れっぱなしにしてあった。とりあえず、一品はヒジキの煮物に決定だな。
 こんなことで頭をひねらなければならないのが、つくづく情けない。
 茉莉はいまさらながらにそう思い、シャケ入りの握り飯にかぶりついた。


「こんばんはー」
 やっぱり、来た。
 台所でにんじんを切っていた茉莉は、包丁を置いて玄関に出た。
「今日のおかずは、なーにかな?」
 毎度おなじみの台詞を言いつつ、冬威が入ってくる。
「ヒジキの煮物と、粕汁です」
 近所から漬物を分けてもらったから、それで茶漬けをしてもいい。
「ひじき?」
 冬威は首をひねった。
「なによ、それ」
 この男は驚くほど食物の名前を知らない。どうやら「仕事」に必要なければ、何事も覚える気にならないらしい。彼にとって、食べ物は食べられるかどうかだけが重要であって、名前や調理法などは二の次なのだ。
「海草ですよ。ミネラルに富んでいて、体調を整える働きがあって……」
 茉莉は、ヒジキの袋を指さした。
「へえ、薬みたいなもん?」
 冬威は、乾燥ヒジキをつまんだ。ぽい、と口に入れて、
「固いよ〜」
「そのまま食べるもんじゃないですよ。水でもどして、煮るんです」
 ばかばかしいと思いつつも、説明する。
「ちょっと、いま、野菜切ってますから、そこのボウルに水をはって、適当にヒジキを入れてください」
「はーいっ」
 楽しそうな、冬威の声。
 ほんとに、子供だよな。ちょっとしたことを頼んだり、なにかの折りに礼を言ったりするだけで、このうえなく上機嫌になる。逆に、少しでも邪険にしたり叱ったりすると、途端に元気がなくなるのだ。
 扱いやすいと言えば、扱いやすい。もっとも、扱いをちょっとでも間違うと、たいへんな目に遭うのだが。
 ここ数ヶ月の不毛な記憶を脇へ追いやり、茉莉はまな板に視線を戻した。
 にんじんとこんにゃくとうすあげを細切りにして、さて、ヒジキと一緒に炒め煮にしようかとボウルを見ると、そこには山盛りに膨らんだ黒い物体があった。
「あの……篁さん」
 茉莉は、すでに卓袱台の前にすわっていた冬威に声をかけた。
「ヒジキ、どれぐらい入れたんですか?」
「マリちゃんが適当にって言ったから、全部入れたよー」
 阿呆か。「適当」と「全部」は違うだろうが。
 心の中で吐き捨てる。しかし、それを言ってはいけない。
「……ちょっと、多すぎたみたいですね」
 精一杯、ぼかした表現。
「え、そう? ごめーん」
 冬威はぺろりと舌を出した。
 あんた、なんにも考えてないだろ。そう思いつつも、ヒジキを引き上げて水を切る。
「いまから作りますから、たくさん、食べてくださいね」
 たくさん、に力を込めて言う。
「はーいっ。待ってるからね〜」
 にっこりと、冬威。茉莉は、ため息まじりに調理を再開した。


「お待たせしました」
 惣菜屋の店先に並んでいるような大皿が、どん、と卓袱台に置かれた。
「粕汁作りますから、先に食べててください」
「わーい。いっただきまーすっ」
 山盛りのヒジキの煮物を前に、冬威は嬉々として箸を取った。ごはんを片手に、猛然とヒジキの山を崩す。一応、取り皿も出してあるのだが、それを使おうという気はまったくないらしい。ごはんの上にヒジキを乗せて、美味しそうに食べている。
 この際、細かいことは言うまい。
 冬威が関わっていた暴力団関係者の身辺調査は、とりあえず今日で一段落ついた。無事にひと仕事終えたのだから、機嫌よく食べてもらえればいい。
 茉莉は粕汁の中に、焼いてほぐした鮭を入れた。香ばしい匂いがする。
 これと炊き立てのごはんだけでも、十分だよな。そんなことを考えながら、卓袱台を見ると、すでに大皿の半分ちかくが空になっていた。
「篁さん、無理しなくてもいいですよ」
 思わず、言った。いくらなんでも無茶な食べ方だ。
「え、べつに、無理なんかしてないって。とーっても、美味しいよ〜」
 けろりとして、冬威。
「それなら、いいんですけど」
 茉莉は粕汁を椀に入れて、冬威の前に置いた。
「ごはんのおかわりは?」
「するするー」
 ぽつぽつとごはん粒のついた茶碗を差し出す。茉莉はそれを取って、二杯目をよそった。
 冬威は上機嫌で食べている。さあて、それじゃ、おれも食べるか。
 そう思って箸を手にしたとき、冬威がもぐもぐと口を動かしながら、言った。
「ねえねえ、マリちゃん。ひじきって、なんか、ムシみたいだよね」
「はあ?」
 ムシって……虫か?
「オレ、前に行方不明のヒトを探して、南の島に行ったことあるんだ。で、現地の人でもめったに行かないようなトコまで行っちゃってさ。気がついたら道に迷ってて、こういう感じのムシを茹でて食べたんだよ〜。黒くて、ひょろっとしてるやつ」
 茉莉は途端に食欲を失った。……そんなこと、よりによっていま思い出すんじゃねえっ!
 目の前のヒジキが、亜熱帯の森にいる蛭かなにかに見えてくる。
「……あれえ、マリちゃん、どうしたの?」
 冬威は、蛭のかたまりを……もとい、ヒジキをむしゃむしゃと食べながら、首をかしげた。
「いえ、べつに……なんでもないです。これ、たくさん食べてくださいね」
 吐き気をこらえつつ、先刻と同じ台詞を繰り返す。
「うんっ。食べる食べるー」
 うれしそうな顔をして。
 この男の神経は、きっと鋼鉄でできているんだ。さもなくば、まったく神経がないのか。
 結局、茉莉はその日、お茶しか口にすることができなかった。
 その原因を作った栗色の髪の男は、そんなことにはまったく気づかずに、満腹になるまでヒジキや粕汁を食べたあげく、皿に残った料理をタッパーに詰めてもらって、ほくほく顔だった。
「ほんとーに、もらっていいの?」
「……どうぞ」
「やさしいんだねー、マリちゃんって」
 にっこり笑って、冬威は茉莉の手を取った。
「おなかもいっぱいになったし、そろそろ寝ようよ〜」
 ……やっぱり今日も、するのか?
 気力体力ともに低下している状態で相手ができるかどうか、はなはだ疑問ではあったが、もう断るのも面倒くさい。
 茉莉は心の中で大きくため息をつきつつ、部屋の電気を消した。

(THE END)