宿り木  by 近衛 遼




第十七話 リクエストは忘れずに

 おかしいな。
 床の中で、茉莉は思った。
 ごはんは丼三杯食べたし、味噌汁も四回おかわりした。大皿に盛り付けたいかそうめんは七割がた、この男の腹に納まったはずだ。ほかに、里芋のにっころがしや、漬物なども。
 足りなかったはずはないのだが、どうしてこんなに機嫌が悪いのだろう。
 敷布に顔を押しつけられた状態が、ずいぶん続いていた。腰を執拗に責められて、下肢ががくがくと震える。何度も頂点の間際まで行きながら、冬威はなかなか解放してくれなかった。
 これって、いつぞやの「フルコース」みたいじゃねえか。茉莉は半ば痺れた頭で、ぼんやりと考えた。
 冬威は以前、「今日はフルコースがいいなーっ」と言って、晩飯だけでなくアレの方も前菜からデザートまでばっちりびっしり、平らげてくれたのだ。おかげで翌日は夕方まで起き上がれなかった。
「……篁さん」
「なーに?」
 余裕の声。悔しい。こっちはもう、ぎりぎりなのに。
「いい加減に……してください」
 恥ずかしいこと、言わすなよ。
「だーめだよ〜」
 動きを止めることなく、冬威は耳元で囁いた。
「いい加減になんか、しないよ。マリちゃんがオレのことを忘れないように、ちゃんと、しっかり、やったげる」
 忘れないように、だって? 茉莉は唇を噛み締めた。
 こんなことをしなくても、忘れないぞ。忘れたいのは、やまやまだが。
「オレはいっつも、マリちゃんのこと考えているのに」
 拗ねたような口調。いったい、どうしたんだ。おれが、なにをした?
 理由がわからない。たしかに食事中、めずらしく口数が少ないとは思っていたが。
「……っ!」
 いきなり片脚を担がれた。乱暴に体を返される。間近に、モスグリーンの瞳があった。
「マリちゃんてば、オレのことなんかどうでもいいんでしょ」
「そんな……こと……」
 圧迫感に耐えながら、なんとか言葉を繋ごうとした。そのとき。
「オレは、ウナギが食べたかったのに」
「え……?」
 一瞬、頭の中が真っ白になった。
 ウナギ?
 なんの話だ。いまのこの状況とウナギと、どんな関係があるんだろう。
「……やっぱり、忘れてる」
 腰を掴む手に力が入る。さらに激しく揺らされて、茉莉は頭を振った。
「思い出すまで、許してやんなーい」
 なんだか、ムキになっている。茉莉は必死に記憶を辿った。こんなわけのわからないことで、責められるのは嫌だ。
 冬威の機嫌が悪くなったのは、いつからだろう。食事のあと? いや、その前から、いくぶんむっつりしていたような……。
 そういえば、冬威は今日「おかずはなーに?」といういつもの台詞を言わなかった。ただ、「おなかすいた〜」と言っただけで。
 献立を知ってたのかな。そんなはずはないが。
「あ……」
 途端に、茉莉は思い出した。前回、冬威が来たときのことを。
『じゃあ一度、ウナギの蒲焼きを作りますよ』
 軽い気持ちで、そう言った。例によって、ドジョウやウナギを生のまま食べたという冬威の話を聞いたあとで。
 天然ものは高いが、養殖のウナギならリーズナブルだ。たとえ冬威が三人前食べるとしても。
『蒲焼きか〜。おいしそーっ』
 あれはたしか、四日前のこと。
 この男はそれを楽しみにしてたのか。「次は」とか、「今度」などとはひと言も言わなかったのに。
 しかし、そんなにウナギが食べたかったのなら、卓袱台におかずを並べたときに言ってほしかった。こんな目に遭うぐらいなら、二度手間になってもメニューを変更した方がマシだったのに。
「……わかりました」
 息苦しさに喘ぎつつ、茉莉は言った。
「今度……作りますから……」
 ぱっと、冬威の表情が明るくなった。動きをゆるめて、茉莉の首筋に唇を近づける。
「やーっと、思い出してくれた〜」
 首の付け根に、噛みつくような口付け。思わず、声が漏れた。全身が震えて、その場所が燃えるように熱くなる。
「すっごく、うれしいなー」
 うっとりと、冬威は言った。
「もう、忘れちゃダメだよ〜」
 ああ。忘れないよ。忘れようったって、忘れられるもんか。……こんなことまでされて。
 自分がどうなってるかなんて、考えたくもない。何度か確認するような動きがあって、そして……。
 やっと、冬威は最後の段階に進んだ。その動きに体中が反応する。すっかり馴染み、無意識のうちに応える体。自分ではどうすることもできないそれを、茉莉は冬威に委ねた。


 翌日。
 三剣茉莉は意地と根性で定時に出勤し、終業時間まで通常の業務をまっとうしたのち、帰り際に商店街で白焼きのウナギを四尾購入した。蒲焼きを作る、と約したからには、つけだれを自分で作って、炭火で焼かねばならない。
 小型のバーベキューコンロを買って帰宅すると、出先から直帰したはずの冬威が一升瓶を手に待っていた。
「酒は、なしですよ」
 これだけは譲らないぞ。そう思って重々しく言い渡す。
「わかってるよー。これは、マリちゃんへのプレゼントっ」
 ひょいと差し出し、
「だって、二日続けてマリちゃんんちに泊まれるなんて〜」
 目が、すっかりハートマークになっている。
 ………今日も、泊まるのか?????

 嫌なことは早く済まそうなどと、思わなければよかった。
 ほくほく顔の冬威に肩を抱かれながら、茉莉はあらためて、自分の甘さを痛感していた。


(THE END)