宿り木  by 近衛 遼




第十六話 白ネギ・ブギウギ

 白ネギ六本百円。
 一瞬、売れ残りなのかと思ったが、まだ新しいし、白い部分も太くてしっかりしている。これは買いだな。大根も、少し小さいが七十円なら安い。さっき、卵も十個八十九円で買った。今日はなかなかラッキーだ。
 頭の中で哀しいほどに所帯じみたことを考えながら、三剣茉莉は夕飯の買い物を続けた。仕事の日程や前回からのインターバルを考えると、今日、冬威がやってくる確率が高い。
 なんの因果か、あの男に食事(と自分自身)を供するようになって、もうずいぶんたつ。冬威はこのごろメニューに注文をつけるようになってきて、作る方としてはなにかとたいへんだ。
「味噌汁は、ワカメが入ってないとやだ〜」
 買い置きがないときに限って、そういうことを言う。かと思えば、次に来たときにはそんなことはすっかり忘れていて、「大根の味噌汁って、おいしー」とか言っているのだが。
 とりあえず、缶詰めや乾物ものや、すぐに使えるレトルトパックの食材などを常備して、急な場合に使えるようにしている。まったく、すでにベテラン主婦の境地だ。
 鳥肉を買って、すき焼きでもするか。ひとりのときは鍋ものやすき焼きを作る気にはなれないから。
 茉莉は、すっかり馴染みになった鳥肉屋へと向かった。


 遅いな。
 すっかり準備の整った卓袱台の前で、茉莉はため息をついた。もしかして、今日は来ないのかな。
 鳥肉は一キロ買ったし、野菜や豆腐も四人前はある。まあ、このまま冷蔵庫に入れておけば、あしたでも大丈夫だとは思うが。
 そろそろ、片付けるか。そう思って鳥肉の皿を仕舞ったとき。
「こんばんは〜」
 なにやら、情けなさそうな声が聞こえた。
「マリちゃーん、開けて〜」
 ドアを叩く音。茉莉はあわてて、扉を開けた。
「たっだいまー」
 倒れ込むようにして、冬威が抱きついてきた。
「たっ……篁さん、どうしたんですかっ」
「んー、のどが痛い〜」
 しゃがれた声で、冬威は言った。
「のどが?」
「今日、ちょっとドジっちゃって、川に落ちたんだよー。でも、着替えは持ってないし、買うにも買えなくて……」
 そういえば、髪や服が湿っぽいな。この寒空に、いままで濡れた服を着てたのか。
「……あんた、そりゃ風邪のひとつもひきますよ」
 阿呆か、と罵倒したくなったが、なんとかそれを意志の力で抑え込む。うっかりしたことを言うと、あとがたいへんだ。
「とにかく、風呂に入って着替えてください」
 じつは、箪笥の中には、すでに「冬威コーナー」がある。出張のとき以外、三日と空けずにやってきては晩飯を食い、泊まっていくのだ。いちいち着替えを持ってくるのも目立つので、いつのまにかこうなった。
 冬威が風呂に入っているあいだに、夕食の用意をする。すき焼きは今度にしよう。肉は冷凍しておけばいい。今日は消化にいいものを作ろう。
 茉莉は手早く、白ネギをきざみはじめた。


「なーに? この匂い……」
 バスタオルで髪をふきつつ、冬威が台所にやってきた。
「ネギですよ。雑炊に入れようと思って」
「うわあ、なんか、すっごい量だねー」
「風邪をひいているときは、ネギやショウガを食べると早く治るんです。今夜はネギ入りの味噌雑炊とショウガ湯を作りますね」
「へーえ、あったまりそうだね〜」
 心底うれしそうに、冬威は笑った。
「いまネギを切ってますから。もう少し、待っててください」
「うんうん。待ってる〜」
 うきうきと、卓袱台の前にすわる。
「ネーギ、ネギネギ〜」
 楽しげに、体を揺らしながら歌いはじめた。まるっきり子供だな。いつものことだが、なんとも可笑しい。
 少し濃いめの味噌汁に、ごはんを入れる。それにたっぷりネギを加え、弱火で三分。さらに溶き卵を流し入れて、一分。
 白ネギの味噌雑炊が出来上がった。
『これを食べれば、あしたには治るから』
 昔、茉莉が風邪をひくと、いつも母がこの雑炊を作ってくれた。そして、特製のショウガ湯も。
 ふつう、ショウガ湯というと、ショウガをすりおろしたものにはちみつや砂糖を加えて熱湯を注ぐのだが、三剣家のショウガ湯は一味違った。ショウガとはちみつに、大根おろしの汁を加えるのだ。
 はっきり言って、おせじにも美味しいシロモノではなかったが、のどが痛いときには効果てきめんで、大抵翌日には快癒していた。
 母が女将をしている旅館「つるぎ屋」でも、客が風邪をひいたときには、このショウガ湯をサービスしている。
「お待たせしました」
 土鍋と椀を卓袱台に置く。ショウガ湯を入れた湯呑みも。
「熱いですから、気をつけて食べてくださいよ」
「はーいっ。いっただきまーす」
 真剣な面持ちで、土鍋に向かう。
 きっとあしたには、のどの痛みも治まっているはず……いや、この男なら、食べ終わったらもうすっかり元気になっているかもしれない。
 過去のあれこれを思い出す。センブリを飲んだときのことや、高熱を出してふらふらになっていたときのことなどを。
 ……まあ、それでもいいか。
 あきらめとも悟りとも違う、いわく言いがたい感情をいだきながら、茉莉は目の前の男を見遣った。


 たくさん、食べてください。
 これがネギの味。卵の味。ひとつひとつを、ゆっくりと味わって。


(THE END)