| 宿り木 by 近衛 遼 第十八話 癒しの温泉 ACT1 小川のせせらぎ、鳥の声。空はどこまでも青く、木々を渡る風は清々しい。ここは人里離れた山奥の湯治場。老舗旅館の露天風呂である。 命の洗濯だよなあ。 茉莉は手拭いを頭に乗せて、ふう、とため息をついた。 ……この男さえいなければ。 「ねえねえ、マリちゃん、ネジ巻いたから、動かすよ〜」 精神年齢五歳、実年齢二十代半ばの栗色の髪の男が、いかにも楽しそうにそう言った。 「ピーちゃん、しゅっぱーつ!」 ばちゃばちゃばちゃばちゃ…… 黄色いアヒルのおもちゃが、目の前を横切っていく。 「マリちゃんもやってみる?」 「……結構です」 このノリには、ついていけない。茉莉は奥歯を噛み締めた。だいたい、どうしておれが、こんな子守りみたいなことをしなくちゃいけないんだ。そりゃ、若葉温泉一泊二食付き宿泊券は魅力だったが。 「もう一回、行っきまーすっ」 アヒルに頬擦りせんばかりにしてそう言う冬威を横目に、茉莉は昨日のことを思い出していた。 「若葉温泉……ですか」 茉莉は某旅行会社のネームの入った白い封筒を見ながら、言った。 「そう。ほんとは、私も参加するつもりだったんですけどねえ。急に用事ができてしまって。キャンセルするのももったいないんで、三剣くん、代わりに行ってくださいよ」 菅原事務所の所長である菅原海里は、のんびりとした口調でそう言った。 なんでも、あちこちの興信所の調査員を集めての講習会のようなものがあるらしい。 「でも、おれ、事務員ですし」 「いいんですよ。講習会なんてのは口実で、まあ、親睦会みたいなもんですから」 それなら、まあ、いいかな。直前のキャンセルは、たしかにもったいないし。 実家が老舗の旅館なので、そのあたりの事情はよくわかっている。茉莉は封筒を受け取った。 「わかりました。行ってきます」 「旅館には話を通してありますから、よろしくお願いしますね。じゃ、私はこれで」 にっこりと笑って、菅原は事務局を出ていった。 「よろしく」って、なんだ? 茉莉は封筒を手に、首をかしげた。なにげなく、封筒を確認する。中には、老舗の温泉旅館のクーポン券が二枚。 「……二枚?」 なんとなく、いやな予感。まさか、これって……。 茉莉は券をポケットにねじ込んだ。不穏な空気と戦いつつ、家に帰る。と、そこには、見慣れた顔が待っていた。 「おかえりなさーいっ」 冬威である。 大きな風呂敷包みをかかえて、玄関の前に立っている。 「ずいぶん遅かったねえ。オレ、一時間も待ったよ〜」 仕事はどうしたんだ、仕事は。 頭の中で文句を言う。が、これを口に出してはいけない。なにしろ異常に機嫌がいいのだ。ここで滅多なことを言って、波を乱したら大変だ。 「すみませんでした。片付けに時間がかかったもので」 「今日のおかずは、なーにかなっ」 来た。茉莉は冷蔵庫の中身を思い浮かべつつ、 「焼鳥と冷や奴と茄子の味噌汁です」 「うわあ、おいしそ〜」 風呂敷包みを抱きしめて、冬威は言った。 「……それ、なんですか」 おそるおそる、茉莉は訊いた。なんとなく、答えはわかってたけど。 「え、これ? だって、待ち切れなかったんだもん〜」 身をくねらせるのはやめてほしい。 「マリちゃんと旅行に行けるなんて。しかも、お、ん、せ、んっ」 語尾にハートマークが飛んでいる。茉莉はがっくりと肩を落とした。 要するに、自分はこの男を押しつけられたってことだ。クーポン券を受け取ってしまったからには、いまさら断るわけにもいかない。茉莉は腹をくくった。 よし。とりあえず、晩飯だ。冬威は今夜、ここに泊まるつもりらしい。なにがなんでも、満腹になってもらうぞ。 いつもより手早く作業する。飯が炊けるまでの繋ぎに、近所からもらった笹蒲鉾を軽くあぶって出した。 「うんうん、おいし〜」 冬威の声を背に、焼鳥を焼く。 先日、商店街の鶏肉屋で十本三百五十円のものを五十本買って冷凍しておいたのだ。今日のように突然冬威がやってきたときのことを考えて。 備えあれば憂いなし。こんなことで備えたくはないが、仕方がない。これもある意味、真剣勝負なんだから。 「いい匂いだねー」 冬威が口をもぐもぐさせながら、横に来た。 「やってみます?」 串を返しながら、茉莉は訊いた。 「え、いいの? やるやるっ!」 ぱっと目を輝かせて、冬威は焼き網に手をのばした。 「あちっ」 やると思った。網なんかさわったら、そりゃ熱いよ。 「気をつけてくださいね。じゃ、おれ、味噌汁を作りますんで」 「うんっ。オレ、がんばる〜」 ちょっとぐらいの火傷は、まったく気にならないらしい。鼻唄まじりに次々と串を返していく。 「きつね色に焼けたら、皿に取ってくださいね」 「わかってるよーだ」 いい流れが作れたな。茉莉は心の中で呟いた。このままうまく事が運べば、なんとか今夜は無事に済むはず。 もっとも、「お手伝い」をさせすぎるのは問題だ。いつぞやのように「がんばったんだから、ご褒美ちょーだい」などと言われたらアウトだ。腹いっぱい食わせて、早々に寝かしつけてやる。 なにしろ、あしたは温泉だ。気力体力、貯えておく必要がある。そのためにも、今日は余計なことはしたくない。 いつもの倍は熱心に、茉莉は調理に取り組んだ。 結果。 冬威は焼鳥を三十串と冷や奴一丁、それにごはんと味噌汁を三杯ずつ食べて六畳間で熟睡し、茉莉は難を逃れた。 そして、この状況である。 「よーし。ピーちゃん、試運転完了! マリちゃん、今度はあっちのお風呂に入ろうよ〜」 冬威はアヒルのおもちゃを持って、薬湯の方へと向かった。入るなり、またアヒルを浮かべて遊んでいる。 楽しそうなのはいいが、やはり疲れる。所長の菅原はこの男の精神年齢は五歳児並みだと言っていたが、行動を司る前頭葉もそのレベルらしい。 だから、かな。 ふと思う。だから、この男はまっすぐなのだ。自分の感情に。 なんのごまかしもない。虚勢もない。ただ、心のままに。 うらやましいと思うときもある。ひたすらに向けられる瞳。のばされる腕。迷いのないその行動が。 おれには、できないもんな。いつだって自分は迷ってばかりだ。そんな自分が嫌で、迷いの中にいたくなくて、わざと自分を放り出してしまう。 「あーっ!」 いきなり、叫び声。当然ながら、思考は寸断された。 「なっ……なんだっ?」 あわてて屋内に入る。と、そこには。 「流されちゃうよ〜」 ジャグジーの泡の中で、ぐるぐると回っている栗色の髪の男。それまでの、めずらしくシリアスな感傷が見事に粉砕した。 「なにやってんですか。沈みますよっ」 腕をとって、引き上げる。どこをどうやったら、温泉のジャグジーで溺れるなんて器用なマネができるんだ。 「マリちゃん、ありがとー。あー、もう、びっくりしたよ〜。オレ、温泉ってビギナーだから……」 温泉にビギナーもベテランもあるか。こめかみがきりきりと痛む。少し湯当たりしたかもしれない。 「そろそろ、上がりましょうか」 「えーっ、オレ、まだ全部入ってないよ〜」 黄色いアヒルを抱きしめて、訴える。 「朝風呂もありますから、楽しみは後にとっておいたらどうです?」 そろそろ夕飯の時間だ。のぼせてぶっ倒れたくはない。 「楽しみは後に……ね」 ぼそりと呟く。しまった。べつのことを連想させてしまったかも。 「うんうん。そうだねー。いっぺんに楽しんじゃ、もったいないもんね」 まずかったかもしれない。が、一度口にした言葉は戻せない。覆水盆に返らず。これ以上、この男を刺激しないようにしよう。 「じゃ、先に上がるね〜」 茉莉が次善の策を練っている横を、黄色いアヒルのおもちゃを抱いた冬威が通り過ぎていく。 これぐらいで疲れていてはいけない。このあとのことをシミュレートしつつ、茉莉は水風呂の冷水を頭からかぶった。 ACT2へ |