宿り木  by 近衛 遼




第十八話 癒しの温泉

ACT2

 若葉温泉の老舗旅館、常盤屋の夕食は三の膳まである本膳料理で、量も通常よりも多かった。
「ご用がございましたら、なんなりとお申しつけくださいませ」
 武家屋敷の古参女中のような年配の仲居が、慇懃にそう述べて部屋を出ていったあと、ふたりは膳をはさんで向かい合った。
「いただきます」
 茉莉は両手を合わせてから、箸を取った。めったに、いや、二度と食べられないかもしれないほどのごちそうだ。せっかくここまで来たのだから、食べなくては。
 黙々と茉莉が箸を運んでいるのとは対照的に、冬威は刺身を一口食べただけで箸を置いた。
「……どうしたんですか」
 さすがに気になって、訊いてみた。もしかして、酒を勧めなかったのが悪かったのかな。茉莉がそう思って銚子を手にすると、
「これ、おいしくない」
 拗ねたような口調で、冬威が言った。
「は?」
「オレ、やっぱり、マリちゃんの作ったものがいい」
 あんたねえ……。
 思わず、口を滑らすところだった。危ない危ない。油断大敵だ。
 茉莉はゆっくりと息をして、銚子を膳に戻した。
「ここは旅館ですから、客であるおれが厨房に入るわけにはいきません」
 懇切丁寧に説明する。こんなことは常識だろうが、この男に一般常識や社会通念は通用しない。
 さて、どうするか。このままなにも食べないでいたら、あとからぶり返しが来るのは目に見えている。この男の食欲ともうひとつの欲求とは妙な連鎖をしていて、空腹になるとべつの方法で欲望を満たそうとするのだ。
「オレは、おなかがすいてるの」
 そう言われて、朝まで執拗に責められたこともある。あんなことは、もうご免だ。
 そういえば。
 ふと、茉莉は思い出した。冬威は、茉莉が作ったものしか「おいしい」と感じないらしいが、市販のものでも頂きものでも、なにかしら手を加えれば食べていた。笹蒲鉾しかり、おからの炒め煮しかり。
 よし。やってみるか。
 茉莉は冬威の膳の刺身にほんの少しワサビを乗せて青ジソでくるんだ。
「こうすると、おいしいんですよ」
 箸でつまんで、差し出す。冬威はそれを、ぱくりと食べた。
 やっぱり。
 茉莉は勝利を実感した。なんとも情けない「勝利」だが。
「どうですか?」
「……おいし〜」
 なんとなく、涙目になっている。そこまで感激しなくてもいいだろうが。いや、もしかしたらワサビが多すぎたかな。
 いろいろと斟酌しつつ、茉莉は冬威に料理を勧めた。
「川魚は、骨を抜くのが難しいんですよ。こうやって尻尾を取って……」
 鮎の塩焼きの骨抜きをしたり、天つゆに大根おろしを混ぜたり、一品一品、手をかける。たいしたことをしているわけではない。それで味が格段によくなることもないはずだが、冬威はほくほく顔で料理を平らげていった。
「あー、おいしかった〜」
 膳の上を空っぽにして、しかも茉莉の分もいくらか食べて、冬威は至極満足そうだった。
「よかったですね」
 食後のお茶をいれながら、茉莉は言った。
 とりあえず、満腹にはなったらしい。第二関門クリア、だな。
 ちなみに、第一関門は温泉だった。どういうわけか、常盤屋の本館にはほかに客がいないらしく、当然風呂場でも茉莉は冬威とふたりきりだったのだ。
 まずい。入ってすぐにそう思ったのだが、引き返すわけにもいかない。日の高いうちから、しかも旅館の風呂場で不埒な真似はするまいと思ったが、なにしろ相手は冬威である。人が眠っているあいだに寝間着を剥ぎ取るような男を、安易に信じるわけにはいかない。
 それゆえ、温泉に入っているあいだは、つねに一定のインターバルを保っていた。むろん冬威がその気なら、多少の距離など問題ではなかっただろうが。
 風呂から部屋に戻る途中で仲居のひとりをつかまえて聞いたところによると、同じツアーのほかの客たちは新館に泊まっているらしい。
「あいにく、お部屋の数が足りませんで、二名さまだけこちらになってしまって。あいすみません」
 いかにも申し訳なさそうに、言う。よく訓練されてるよな。妙なところで感心した。
「このお茶もおいしいねー」
「そうですね」
 お茶はかりがねと呼ばれる煎茶だった。若いくきの部分を多く使ったお茶で、低温でじっくりいれるとほのかな甘みがある。
「あー、オレ、しあわせ〜」
 ごろりと膳の前に横になる。これは……。
 ほんの少し、希望を抱く。冬威がこんなふうに横になるときは、そのまま寝入ってしまうことが多いから。
 茉莉は部屋付きの仲居を呼んだ。古参の者に若い仲居が二人ばかり付いて、手早く膳を片づけていく。
「奥も整いましたので、どうぞごゆっくりお休みくださいませ」
 朝食の時間を告げてから、仲居たちが下がる。茉莉は奥の間から掛け蒲団を持ってきて、そっと冬威にかけた。
 しあわせそうな寝顔。あどけなささえ窺える。長い前髪が寝息に合わせて揺れている。
 ほんとに、きれいな顔だよな。男の自分が見てもそう思う。本人は自覚してないのかもしれないけど。
「なーんか、照れるな〜」
 ちろり、と片目を開けて、冬威が言った。
「……起きてたんですか」
 まただ。また、やられた。眠っていると思って気を抜いていたこちらが悪いにしても。
「そんなに熱い視線を送られたら、だれだって目が覚ますって」
 冬威はにっこり笑って、茉莉の項に手をのばした。
「おなかもいっぱいになったし」
 いつもの台詞。
「一緒に、寝よっか〜」
 項から肩へ。浴衣がするりと滑る。冬威の長い指が、覚えのあるルートを辿っていく。
 放っておけばよかった。そんなことを思う。蒲団をかけたまま、さっさと電気を消していればよかったかも。
 まあ、そうしてたって、夜中に急襲されたかもしれない。最初のときのように。
「……奥へ、行きませんか」
 冬威の唇を首筋に感じつつ、茉莉はかろうじて言った。いくらなんでも畳の上はまずい。うっかり汚しでもしたら、一部屋全部、畳替えだ。
「あ、そうだね〜」
 うれしそうに、冬威は笑った。掛け蒲団をかぶったまま奥へと移動する。
 笑顔。どうしたって、自分はあれにかなわない。あの無邪気な心には。
「マリちゃーんっ。蒲団、くっつけたよ〜」
 奥から、楽しげな声。シングルの蒲団をふたつ合わせて、ダブルサイズの寝床を作ったらしい。
 はいはい。いま行くよ。茉莉は苦笑して、座敷の明かりを消した。


(THE END)