宿り木  by 近衛 遼




第十話 ツルマル印の鍋

 独り暮しを始めるときに、金物屋のおやじさんが「安物買いの銭失いはしなさんな」と言って勧めてくれたのが、その鍋だった。
 見た目はなんの変哲もない、ただのアルミ鍋。ほかの品と比べて、どこといって違いがあるようには思えない。最初はボラれているのかと思ったが、「まあ、試しにひとつだけでも」という主人の熱意に押されて、手頃な大きさの両手鍋を買った。
 あとになって、片手鍋や煮物用の深鍋など何種類かを買い足したが、どれも使い勝手がよく、重宝している。
 茉莉は今日も、それらの鍋をコンロに乗せて調理に励んでいた。子持ちカレイの煮付けと具だくさんの味噌汁。ごはんはしっかり、五合炊いた。
 これで、どんぶり三杯おかわりされても大丈夫。茉莉は台所で最終チェックをした。
 まだ少し時間があるから、もう一品作るかな。思いついて、冷蔵庫を覗く。
 昨日、麦とろ飯を作ったときの長芋が、半分ばかり残っていた。向かいのおばさんお手製の梅干しもある。茉莉は長芋を拍子切りにして、梅酢和えを作り始めた。
 それにしても、ずいぶん手慣れてきたと思う。
 もともと家事は苦手じゃなかったし、「門前の小僧」で料理もそれなりにできる方だったが、あの男と関わってから、さらに磨きがかかったような気がする。
 篁冬威。明るい栗色の髪とモスグリーンの目のクォーター。
 ひょんなことから冬威に食事を作るようになり、文字通り「夜襲」を受けて体の関係ができてから、もうずいぶんたつ。
「マリちゃんのごはんは、本当においしいなーっ」
 茶碗に頬ずりせんばかりの調子で、冬威は言う。
「それに、マリちゃんも〜」
 食欲と、もうひとつの欲求とをイコールで結んでいるらしいこの男は、食事のあとで必ずといっていいほど、茉莉を蒲団に引っ張り込む。最初のうちはそれに抵抗もあったが、いまでは半ば諦めの境地だ。
 まっすぐに、正直に求めてくる心。それはまるで子供のようだった。願えば必ず叶うと信じている、小さな子供。
 そんな冬威がほしがるものなら、与えてもいいかと思ってしまった。つくづく、因果である。
 梅酢和えを鉢に盛っているとき、玄関の戸を叩く音がした。
「こんばんはー」
 いつもの声。扉を開けると、
「今日のおかずはなーにかなっ」
 これまた、いつもの台詞だ。茉莉は長芋にかつおぶしを散らしながら、メニューの説明をした。
「あーっ、オレ、カレイって干物しか食べたことないんだよー。うれしいなあ。マリちゃんと一緒にいると、めずらしいものがたくさん食べられて」
 瞳に星でも飛ばしそうな勢いで、冬威は平鍋を覗き込んだ。
 カレイの煮付けというポピュラーな料理さえも、この男には感動を与えるらしい。茉莉は頬をゆるませた。
「火を入れますから、ちょっと見ててください。おれ、味噌汁に入れるネギを切りますんで」
「うんっ。まーかせて〜」
 このところ、とみに「お手伝い」に燃えている冬威は、満面に笑みを浮かべてそう言った。
 もっとも、手伝いとは名ばかりで、結局は二度手間三度手間になるのがオチだった。食器を運べば落として割る。大根おろしを作らせれば指の皮まですりおろす。蒲団を敷かせれば押し入れの襖を壊す。およそ役に立った試しはない。
 それでも冬威の「手伝いたい」という欲求は留まるところを知らず、毎回毎回、なにかしら「お手伝い」のネタを探しては手を出してくるのだ。
 できるだけ、被害の少ないものを。
 茉莉はいつも、そう考えていた。そう考えて、鍋の見張りをしてもらったのだが。
 なんか、ヘンな臭いがする……。
 ネギを刻む手を止めて、茉莉は横を見遣った。
 平鍋から、煙。
「たっ……篁さん! なにやってんですかっ!」
 茉莉は慌てて、コンロの火を止めた。
「え、どうかした〜?」
 冬威はモスグリーンの目をぱちくりしている。
「どうかって、あんた……なんで、勝手に強火にするんですかっ」
「だって、早く食べたいんだもん」
「早くって……」
「火を強くしたら、早くあったまるでしょ」
 茉莉はがっくりと肩を落とした。平鍋は、すっかり焦げついている。
「……篁さん。煮魚ってのは、みりんと醤油を使うんです。だから、強火にしたらすぐに煮詰まってしまうんですよ」
「へえ、そう。で、それがどーしたの」
「だから! 煮詰まって焦げついた煮魚なんて、食えたもんじゃないですよっ」
「えーっ、これ、もう食べられないの?」
 途端に、冬威は泣きそうな顔になった。
「そんなあ。オレ、カレイの煮付けが食べたいよ〜」
 自分で焦がしておいて、なに言ってんだ。
 茉莉は憮然としつつも、鍋にひっついたカレイを引き剥がした。身が崩れるのは仕方がない。皿に乗せて、ずい、と差し出す。
「どうぞ」
「食べられるの?」
「一部炭化してますが、食べてもどうってことありません」
 淡々と、言い渡す。冬威は皿を手にして、卓袱台の前にすわった。
「……いただきます」
 消え入りそうな声。そこまで落ち込むぐらいなら、余計なことをしなければいいのに。
「煮魚って、苦いんだね」
 ひとくち食べて、冬威が言った。
「焦げてるからです」
「次は、焦げてないのがいいな〜」
 だれのせいで焦がしたと思ってるんだ。そう言いたいのをぐっとこらえる。
「わかりました」
 低い声で答え、とある事実に気付く。
 味が、わかるようになったんだな。
 妙なところで感心した。なにしろ出会ったころの冬威は、定食を全部ひとつの器に入れて食べるような味覚音痴だったから。
 それにしても。
 茉莉は真っ黒になった鍋を見下ろして、ため息をついた。
 件の金物屋で買った平鍋。煮魚や菜ものを茹でるときには重宝していたのに、こんなに焦げついては、もう使えない。近いうちに新しいのを買いに行かなくっちゃな。茉莉はざっと汚れを落として、鍋をごみ袋に入れた。
「それ、捨てちゃうの?」
 どんぶりを片手に、冬威が訊いた。
「ええ、まあ……」
「どうして」
「どうしてって、あんた……」
 味はわかるようになっても、自分の行状は把握していないらしい。
「あんたが鍋底を真っ黒にしてしまったからですっ」
 ごみ袋から無惨に焦げた鍋を取り出し、冬威の目の前に突き出す。
「おれが独り暮しを始めてから、ひとつずつ買い揃えてきた鶴丸印の鍋なんですよっ。軽くて丈夫で、使い勝手もよかったのに……」
 かたん、と、どんぶりを置く音。しまった。言い過ぎた。
 冬威がゆっくりと立ち上がる。
 まずい。まだ飯を食ってないのに。
 茉莉はこれから起こるだろうことを予想して、身を固くした。冬威が近づいてくる。形のいい手がのびてきた。焦げついた鍋を取り、流し台に置く。
「マリちゃん」
 腰に手が回る。
 今日はここで、か。茉莉は自分の不用意な言葉を悔いつつ、思った。よし。もうこれ以上、刺激しないようにしよう。いつぞやのように背中を擦りむくのは嫌だ。
 覚悟を決めて、体を預けようとしたとき。
「ツルマル印って、なに」
 目の前二十センチほどの距離で、訊かれた。
「は?」
 一瞬、頭が真っ白になる。
「だーから、ツルマル印ってなんのこと?」
 んなこと、腰を密着させて訊くんじゃねえっ!!
 思わず叫びそうになった。が、それを言ってしまっては、今度こそアウトだ。
「鍋の……銘柄ですよ」
 ひきつりそうになりながらも、なんとか答える。
「商店街の金物屋で、いちばんの売れ筋なんです。丈夫で長持ちするっていうんで」
「その鍋を、オレ、オシャカにしちゃったんだね」
 冬威はしゅんとして、手をはなした。
「帰る」
「え?」
 茉莉は耳を疑った。帰るって? 夕飯も途中だというのに。
「ツルマル印……だね」
「はあ」
「弁償する」
「え、いや、その……」
 なにも弁償してくれとは言ってない。ただ、自分がしたことを認識してほしいだけで。
「あした、また来るから」
 冬威は三和土に降りた。履物をつっかけて、振り向く。
「じゃ、おやすみ〜」
 ひらひらと手を振って、冬威は部屋を出ていった。卓袱台には、食べ残しの魚と汁ものとどんぶり飯。茉莉は大きくため息をついた。
 五合も炊いたのに。
 味噌汁も大鍋いっぱいあるのに。
 さらには、鉢に山盛りの梅酢和え。
「どうすんだよ、これ」
 茉莉は脱力して、卓袱台の前にすわりこんだ。


 翌日。
 冬威は大きな背負い子を担いで茉莉の家にやってきた。
「マリちゃーんっ。ほらほら、ツルマル印の鍋だよ〜」
 どうやら冬威は、その日、金物屋にあった鶴丸印の鍋をひとつ残らず買い占めたらしい。
 軽くて、丈夫で、長持ちで。
 その後、茉莉が件の金物屋に立ち寄ることはなかった。


(THE END)