宿り木 by 近衛 遼




第九話 愛、届けます

 その日、茉莉は晦日市の露天で売れ残りの茶碗や丼や皿を持てるだけ買って、帰宅した。
「あー、重かった」
 流し台の横に、どさりと荷物を置く。
 帰る道々、顔見知りの八百屋のおやじさんや惣菜屋のおかみさんに「にいちゃんもいよいよ所帯を持つのかい」とからかわれて大変だった。
 所帯、か。
 たしかに、このところの自分は思い切り所帯じみている。もともと家事はまめにやる方だったが、最近ますます拍車がかかってきていて、近所のおかみさんたちからは、年上の恋人の尻に敷かれていると噂されているらしい。
 尻には敷かれていないが、振り回されてるよな。深いため息をひとつ。
 問題は、その「恋人」が男で、非合法ギリギリのことも平気でやってしまう興信所の調査員で、茶碗ひとつまともに洗えない日常生活不適格者であることだ。
「なんか、やることなーい?」
 茉莉の家に夕飯を食べに来るたびに、冬威は言う。以前は縦のものを横にもしなかったくせに、このごろ、なにかというと「お手伝い」をしたがるのだ。
 まるで子供だな。茉莉は思う。所長の菅原は冬威を評して「精神年齢五歳」だと言っていたが、行動基準もどうやら大差なかったみたいだ。
「お皿、片付けるねーっ」
 一枚ずつ運んでいるのに、どうして次々落とすんだ。
「茶碗、出しとくよー」
 二人しかいないのに、水屋にあるのを全部出さなくていい(しかも、半分ちかく落として割っている)。
「お茶、いれるね〜」
 ……急須に山盛り茶葉を入れるなっ!
 疲れた。
 罵倒できれば、まだマシだ。問題は、この男がやたらとプライドが高いということなのだ。ばかばかしい失敗をしても、大っぴらに笑えない。そんなことをしたら、果てしなくひねくれて、修正がきかなくなってしまう。
 結果、幼児に対するごとく、噛んで含めるように話さなければならない。
 仕方がないよな。半ば、あきらめの極致だ。そんな男に、自分から近づいてしまったのだから。
 茉莉は買ったばかりの食器を洗い桶に入れた。
 今日あたり、冬威が夕飯を食べに来るはずだ。きっとまたなにか「手伝い」をしたいと言うに違いない。そのときは、この食器を使おう。なにしろ、十羽ひとからげで買った品である。落とそうが割れようが、どうってことはない。
 そんなことを考えていると、まるで計ったように玄関の戸を叩く音がした。
「マリちゃーん」
 来た。
 茉莉は食器を水切り籠に置いたまま、扉を開けた。
「今日のおかずはなーにかな?」
 毎度おなじみの台詞だ。
「ブリ大根と水菜の吸い物です」
「ふーん。いい匂いだねー。あ、これ、お土産」
 冬威は一抱えもあるような大きな木箱を差し出した。
「へっ……なんですか、これ」
 ずっしりと、重い。
「食器だよ」
「食器?」
「茶碗とか鉢とか、いろいろ。もらったんだけど、オレは使わないから」
 「もらった」って、いったいだれがこんなものを……。茉莉は首をかしげた。この箱の大きさからすると、会席料理の器が六客揃いで入っていそうだが。
「オレ、こないだからマリちゃんんちの茶碗、だいぶ割っちゃったからさー」
 なるほど。一応、自覚はしてるんだな。
 しかし、それにしたって極端だ。こんなにたくさんもらっても置く場所がない。タイミングがいいというか悪いというか、今日、新しい食器を買ってきたばかりだし。
 心の中で独白しながら、茉莉は箱を開けた。丁寧に紙で包まれた茶碗を手に取る。
「たっ……篁さん」
 声がうわずった。
「なーに?」
 冬威はすでに、卓袱台の前にすわっている。
「この茶碗……もしかして、七星窯のじゃないんですか?」
「へ? なによ、それ」
 死んだ父親が道楽者で、七星窯の皿や壺をいくつか持っていたが、それと同じ銘がこの茶碗にも入っている。
「なにって、その……もし七星窯の品だったら、茶碗ひとつでひと月ぐらい暮らせるんですよ?」
『またそんなモンに金使うて。大将の道楽は焼かな治りまへんな』
 倹約家の母親が、よくそう言ってたっけ。
「茶碗ひとつじゃ、お茶漬けか汁かけごはんしか食べられないじゃんかー」
「いえ、そういう意味じゃなくて……」
 なにとぼけたことを言っているんだ、この男は。ひと月暮らせるって言ったら、一カ月分の給料ぐらいの値がするってことだろうが。
 茉莉はおそるおそる、ほかの器も調べてみた。専門家ではないので判然とはしないが、おそらく皆、七星窯のものだ。
「こんな高価なもの、いただけませんよ」
「へえー、そんなに高いモンだったの。でも、オレは自分ちでごはん食べないから」
 自宅で食事をしない。
 その言葉が、茉莉の胸にちくりと刺さった。そうだ。この男は、放っておいたら何日でもまともな食事を摂らないようなやつだった。
「マリちゃんがいらないんなら、捨ててもいいよ〜」
 ばかな。これだけあれば、リゾートマンションのひとつも買えるかもしれない。いったいだれが、こんなものをこの男に……。
 マジに考えると恐いので、いまは詮索しないことにした。
 あとから面倒なことにならなければいいんだけど。
 茉莉は木箱を見下ろしつつ、ため息をついた。まあ、くれると言うものは貰っておこう。冬威がウチに来るようになってから、食費が三倍ちかくに跳ね上がった。正直なところ、いまの給料でこの男の胃袋を満たすのは大変なのだ。
 万一のときは、ネットオークションにでもかけて売ってやろう。茉莉はそう自分を納得させた。
「マリちゃーん。オレ、おなかすいた〜」
「あ、はい。いま、用意しますから」
 とりあえず箱の蓋を閉めて、茉莉は立ち上がった。
「あれえ、その茶碗、使わないの?」
「今日は、うちの食器で……」
 七星窯の鉢にブリ大根なんか入れられるか。万一、「オレが洗う〜」なんて言われて、うっかり割られたら大変だ。
「あ、新しいお茶碗だねっ」
 茉莉が水切り籠から取り出した茶碗を見て、冬威は言った。
「ええ。さっき、晦日市で買ってきたんですよ」
「うわあ、うれしいなあ。マリちゃんがオレのために、お茶碗を買ってくれたなんて〜」
 にこにこと、冬威は笑った。
「まるで新婚さんみたーい」
 どこがだ、どこが!
 買ったばかりの茶碗を落としそうになった。つくづく心臓に悪い。
「たくさん、食べてくださいね」
 桶のような大きな鉢に盛ったブリ大根を、どん、と卓袱台の上に置く。新しい茶碗にごはんをよそって差し出すと、冬威は上機嫌で箸を取った。
「いただきまーす」
 いつものように、しあわせそうな顔で飴色になった大根を口に運ぶ。茉莉も卓袱台の前にすわって、汁ものに手をのばした。


 小一時間後。
「あーっ、マリちゃんっ!」
 ガチャン、という音とともに冬威が悲鳴を上げた。悲しいほど、予想通りの展開だ。自分が食べた茶碗を流しの中に入れようとして、手がすべったらしい。
 やはり、安物の食器を買っといてよかった。茉莉は手早く、床に散らばった欠片を集めてごみ箱に捨てた。雑巾でざっと床を拭く。
 冬威はしゅんとして、卓袱台の前に正座した。
「ごめん」
 いつになく、殊勝な様子だ。茉莉は雑巾をすすぎながら、
「気にしないでください。掃除すればいいんですから」
「せっかくマリちゃんが買ってきてくれたのに」
「茶碗なら、まだありますから……」
 なにをそんなにムキになっているんだろう。いままでだって、山ほど(というのは大袈裟にしても)食器を駄目にしているくせに。
 盆に湯呑みを乗せて、卓袱台の前に戻る。冬威は顔を上げた。
「ほんとに、怒ってない?」
「怒ってませんよ」
 あきれてるだけで。
「よかったー」
 言うなり、冬威はがばっと茉莉に抱きついた。湯呑みがころころと壁ぎわまで転がる。
 お茶が入ってなくてよかった。まったく、いつも唐突なんだから。
「オレ、マリちゃんのためにがんばるからねっ」
 手が衣服の下に滑り込む。
 ……こっち方面は、がんばらなくていいよ。もっとも、この状況でそんなことを言っても無駄だろうな。
「……蒲団、敷いてくれませんか」
 畳の上は、ちょっと嫌だ。以前、背中をすりむいたことがある。
「うんうん。いま敷く〜」
 嬉々として、冬威は奥の八畳間に入っていった。これからは、蒲団の上げ下ろしぐらいしてもらおう。蒲団なら落としても割れないし。
 つらつらと考えていると、奥からガタン、と大きな音がした。
「マリちゃ〜ん……」
 情けなさそうな声。慌てて立ち上がる。
「なんですか、いったい……」
 奥を覗いて、茉莉は絶句した。押し入れの襖の枠がぽっきりと折れている。
「ごめん〜」
「……どうして、こんなことになったんです」
 心持ち固い口調で、茉莉は言った。
「蒲団を出そうと思って……」
「で?」
「襖に引っかかったからさー」
「……力任せに引っ張ったんですか」
「うん」
 狭い押し入れである。蒲団を出し入れするときは、あらかじめ襖を一枚外すか、蒲団を斜めにしなければうまくいかない。そんなことは、見ればわかると思っていた。まさか襖を壊すとは。
 冬威はとぼとぼと八畳間を出た。
「帰る」
「は?」
 茉莉は振り向いた。耳が遠くなったかな。一瞬、そう思った。
「帰るよ。あした、建具屋を連れてくるから」
 なるほど。襖の弁償をする気か。それにしても、こんなにあっさり帰るなんて、なにか裏があるんじゃないだろうな。
 なにしろ、この男には何回も騙されている。どんでん返しがあっても驚かないぞ。
「じゃ」
 冬威はすたすたと玄関に向かった。木箱の横を通って、三和土に下りる。
「あ、そうだ」
 やっぱり来た。すんなり帰るはずがないと思ったのだ。
「……なんですか」
 身構えつつ、訊く。
「ブリ大根、まだ残ってたよね」
「はあ、まあ」
「もらっても、いい?」
「じゃ、重箱にでも入れます」
「そのままでいいよ」
「大鉢のままで?」
「うん」
「じゃあ、どうぞ」
 茉莉は卓袱台の上に置いていた大鉢を冬威に渡した。
「ありがと。お皿はあした、返すから」
 明日は日曜だ。日中にこの大鉢を持って、建具屋を連れてくるってか?
 近所になんて噂されるだろう。あまり考えたくない。
 布巾をかけた大鉢を抱えて、冬威が帰っていく。これはこれで、一種のどんでん返しかも。
 茉莉は七星窯の器の入った木箱の横に、どっかりと腰をおろしてため息をついた。


(THE END)