宿り木 by 近衛 遼




第十一話 ご褒美をねだる男

ACT1

 合い挽きミンチ百グラム四十八円、卵一パック五十八円、玉ねぎ一山四個で八十九円。
 今夜のメニューは決まりだな。
 仕事帰りの商店街で、三剣茉莉は今日の「勝利」を実感した。予算内で、予定より多くの食材を手に入れたのだ。
 こんなことでしか「勝利」を感じられなくなった日常に多少の不安はあるものの、やはり現実の比重は重い。男の独り暮し。本来なら食費などたいしてかからないのだが、とある事情で冬威に飯を作るようになってから、エンゲル係数が一気に増大した。
 篁冬威。栗色の髪とモスグリーンの眼のこの男は、どういうわけか茉莉の作る食事(と、茉莉自身)に執着していて、週に二回は「今日のおかずはなーにかな?」と晩飯を食べにやってくる。
「マリちゃんのごはんは最高だね〜」
 満面に笑みを浮かべながら、しあわせそうに箸を運ぶその姿を見ていると、なんとなくこちらもほのぼのとした気分になってきて、給料日前の財布が苦しいときでも、ついムリをしてしまうのだ。
 とくに贅沢な料理を作るわけではない。ごくありきたりの惣菜なのだが、なにしろ冬威の食欲は並ではない。二人前三人前はあたりまえ。飯は少なくとも四合は炊かないと、茉莉はおかわりもできない。丼物の場合などは、最初から五合炊くのが習慣になってしまった。
 ちなみに。
 今日は二十二日。給料日まであと三日ある。が、仕事の日程や前回からのインターバルを考えると、今夜あたり、あの男が「こんばんはー」とやってくる確率が高い。
 自分ひとりなら白飯にうめぼしだけでもいいが、冬威が来るとなれば、なにか腹持ちのいいものを用意しなくてはならない。というのも、あの男の食欲ともうひとつの欲求は妙な連鎖をしているらしく、満腹にならないとそのあとが大変なのだ。
 以前、ちょっとした言葉の行き違いからハンスト状態になった冬威に、「オレはおなかがすいてるのっ」と畳の上に押し倒されたことがある。さんざん責められた挙げ句に二回戦に突入。その後のことは、もう思い出したくもない。
 といって、満腹になればそのまま何事もないのかと言えば、そうではない。
「お腹もいっぱいになったことだし、寝よっか〜」
 と、ほくほくした顔で茉莉を蒲団に引っ張り込むのだ。
 結局、どっちでも同じじゃないか……と思ってはいけない。翌日のダメージが断然、違う。
 そういう過去の経験から(なんとも情けない経験ではあるが)、茉莉はつねに冬威を満腹にさせることを第一義としていた。
 それにしても、今日は幸先がいい。ミンチに卵に玉ねぎ。ふだんの半値にちかい値段だったので、ふだんの倍の量を買った。ミンチは小分けして冷凍すればいいし、卵だって冷蔵庫に入れておけば日持ちする。
 とりあえず、今日のおかずはハンバーグ。次回は肉団子だな。きっと、茶碗を片手にうきうきしながら食べるだろう。子供のように。
 玉ねぎもたくさん買ったし、オニオンスライスも作ろう。
 付け合わせの献立を考えつつ、茉莉はさらに商店街を歩いた。


 帰宅すると、茉莉はさっそくハンバーグ作りにとりかかった。
 まずは玉ねぎ。涙をこらえつつ、みじん切りにする。次はミンチ。粘りが出るまでしっかりこねる。卵やパン粉や牛乳なども加えて、さらに練ってから形を整えた。
 ハンバーグを丸めるときは、両手のあいだで投げるようにして空気を抜くのがコツだ。一見、遊んでいるようにも見えるが、これをしないと焼いている途中でハンバーグがぱっくりと割れてしまうことがある。そうなっては、せっかくの肉汁が外に出てしまって台無しだ。
 種は、十個ぶんある。もし冬威が来なかったら、一個ずつラップに包んで冷凍するつもりだった。が。
「マリちゃーん……」
 声とともに、玄関の戸を叩く音がした。
 ドアを開けると、そこにはぼろぼろの服を着た冬威の姿があった。
「どうしたんですか!」
 茉莉はあわてて、冬威の腕をとって玄関の中に入れた。
「ひどいですね、これは……どこか怪我でも?」
 見たところ、出血はないようだが。
「大丈夫〜。でも……」
「でも?」
「おなかすいたー」
 いつも通りの台詞を言って、冬威は茉莉に抱きついた。


「あー、さっぱりした」
 シャワーを済ませた冬威が言った。
「……よかったですね」
 洗面所で破れた服を洗いつつ、茉莉は答えた。
 まったく、なんでこんなことをしなくてはいけないんだ。どうせ捨てるしかないのに。水と洗剤と手間の無駄だぞ。
 服はあちこち引き裂かれたようになっていて、とても着られるような状態ではない。今回の冬威の仕事は、大物代議士の身辺調査だった。
「旧式のセキュリティだと思ってたら、とんでもないのがいてさあ」
 こっそり件の代議士の自宅に忍び込んだら、庭にドーベルマンが放し飼いになっていたらしい。
「もー、ほんと、人間相手の方がよっぽどラクだよ〜」
 ひたすら洗濯物と格闘している茉莉のうしろで、冬威はぼやいた。
 バケツの水は、すぐに真っ黒になった。汚れた水を流して、新たに石鹸水を作る。同じ作業を繰り返すこと、三回。やっと汚れが落ちた。
「とりあえず、干しておきますから」
「うんっ。ありがと〜」
 早々と寝間着に着替えた冬威が、にこにこ顔で言った。
 いまさら断るつもりもないが、やはり今日も泊まっていくらしい。茉莉は小さくため息をついて、洗ったばかりの服(であったもの)を窓の外に干した。
「あ、マリちゃん。これ、なーに?」
 冬威は流し台の前に立って、訊ねた。いつもながら、めざとい。茉莉は窓を閉めつつ、
「ハンバーグの種ですよ」
「ふーん。これがハンバーグになるの。ねえねえ、マリちゃん。オレ、手伝うよ〜」
「手伝うって……」
 いやな予感。なにしろこの男は、精神年齢五歳、家事能力はそれ以下という日常生活不適応者なのだから。
「これ、丸めたらいいんでしょ?」
 言うなり、手をボウルの中につっこむ。
「あ……」
 止める間もない。冬威の手は、見る見るうちにハンバーグの種でべとべとになった。
「あれえ、なんだかうまくいかないな。みーんなひっついちゃって」
「……まず、手に油を塗ってください」
 茉莉はこめかみに鈍痛を感じながら、懇切丁寧に段取りを説明した。冬威はそれを興味深げに聞いている。
「で、それからこうやって、空気を抜くんです」
 ぽんぽんとハンバーグの種が両手を行き来した。ハンバーグの動きを追って、冬威の顔が左右に振れる。
「うわー、面白いな〜。やらせてやらせてっ」
 子供が粘土遊びをするときのような表情で、冬威は再度、ボウルに手をのばした。今度はちゃんと油を塗っている。
「あれ、ちょっと多かったかな〜。ま、いいよね、これぐらい」
 大きさが違うと均等に火が通らないのだが、この際、そんなことはどうでもいい。機嫌よく遊んで(?)いるのだから、細かいことは気にしないでおこう。
 茉莉はそう判断して、とりあえず作業を続けた。
 四角いバットの中に五個のハンバーグが並んだとき。
「あーっ!」
 耳のすぐ横で、冬威が絶叫した。
「なっ……なんです?」
「落としちゃった〜」
 泣きそうな顔。茉莉はため息をついた。
「……怒った?」
 上目遣いに、冬威。
「怒ってませんよ」
 一応、言っておく。
「ほんとーに、怒ってない?」
 探るように、訊く。
「怒ってませんってば。しつこいですね」
「あーっ、やっぱり怒ってるー」
 ミンチでベトベトになった手を震わせながら、冬威は唇をとがらせた。本物の五歳児ならそれなりにかわいいポーズだが、二十代後半の男がやっても異様なだけだぞ。
「マリちゃんのために一生懸命がんばってるのに〜」
「わかってますよ」
 そう。がんばっているのは、わかってる。ただ結果が伴わないだけだ。
 茉莉は、床にへばりつくようになっていたハンバーグをフライ返しですくって、差し出した。
「どうすんの?」
 不思議そうに、冬威は言った。
「もう一度、お願いします」
「え?」
「土の上に落ちたわけじゃありませんから、大丈夫ですよ」
 多少の塵や埃には目をつむろう。どうせ、大半はこの男が食べるんだ。自分はこれに手を出さないようにすればいい。
「マリちゃんって、寛大なんだね〜」
 途端に、冬威の表情が明るくなった。
「オレ、がんばるっ」
 純粋と言えば純粋。単純と言えば単純。
 茉莉は付け合わせのサラダを作りつつ、その作業を見守った。

ACT2へ続く