宿り木 by 近衛 遼




第五話 秋の夜長に

 茉莉は、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
「あの……すみません、篁さん。いま、なんて?」
「いらないって、言ったんだよ」
 壁の前でひざを抱えたまま、冬威は答えた。
「え、でも、いらないって……ごはんですよ?」
 卓袱台の上には、栗ご飯としめじの吸い物、焼魚などが乗っている。
「いらない」
「でも……」
「オレのことはいいから、さっさと食べたら」
 唇を尖らせて、横を向く。やっぱり、あれがまずかったのかな……。
 本当に、子供みたいな男だ。ちょっとした失敗を笑われただけで、こんなに頑なになって。
 茉莉は小さく、ため息をついた。


 今日、茉莉は有休をとっていて、起きたのは昼前だった。
 天気も上々。絶好の家事日和である。せっかくの休みをそういうことに使うのはもったいないという意見もあるだろうが、茉莉はそれを苦にしないタイプだった。
「とりあえず、洗濯だよな」
 敷布やカバーを剥がし、一気に洗う。
 午後の日差しの中、それを手早く干すと、次は部屋の掃除だった。時期的に窓を開けることが多いので、細かい砂ぼこりが結構入り込んでいる。
「こういうので、のどを痛めるんだよなあ」
 ぶつぶつ言いながら、水で湿らせた新聞紙をちぎって畳の上にまく。こうすると、余計な埃をたてずに、掃き掃除ができるのだ。
 どう見ても、思いきり所帯じみている。
 実家が老舗の旅館であることも手伝ってか、茉莉にはやたらと「おばあちゃんの知恵袋」的な知識があった。もしかしたら、これも「精神年齢五歳」な男になつかれてしまった一因かもしれない。
 まずかったよな。
 後悔先に立たず。いまさら、なにを言っても仕方ないが。
 中の掃除が一段落したので、外に出る。裏庭に回って、竹ぼうきで落ち葉を掻き集めていると、八畳の窓がからりと開いた。
「あー、いたいた。マリちゃーん」
 冬威である。
 また、勝手に上がり込んだな。
 頭の中で、毒突く。たしかに玄関の鍵はかけていなかったが、だからといって人んちに無断で入るなと、あれほど言っているのに。
「今日のおかずは、なあにーっ?」
 にこにこと、訊く。茉莉は竹ぼうきを置いた。
「栗ごはんと、焼魚ですよ」
 昨日、ご近所から分けてもらった栗は、もう皮をむいて釜に仕掛けてある。
「ここの掃除が終わったら、作ります」
「はーい。待ってまーすっ」
 冬威は窓から首をひっこめた。
 今日は来るのが早いな。そんなことを考えながら、ふたたび箒を取る。
 落ち葉の掃除は苦手だった。せっかく集めても、風が吹くと元の木阿弥だ。幸い、今日は風が弱いので助かるが。
「なんか手伝うこと、ある〜?」
 そう言いながら、冬威が裏庭にやってきた。
「へ?」
 茉莉は耳を疑った。冬威がこの家に通うようになってずいぶんたつが、いままで茶碗ひとつ片付けたことがない。
 ちょっとは成長したのかな。それならそれで、喜ばしいことなのだが。
「うわー、たくさん、集まったねー」
 落ち葉の山に、冬威は嬉々として言った。
「ねえねえ、焼き芋、できるかな」
「焼き芋ですか」
 できなくはないだろうが。
「すみません。いま、ウチに芋はないんですよ。栗だったら少し残ってますけど」
 ごはんに混ぜたもののほかに、きんとんでも作ろうかと分けておいたのだ。
「ちょっと待っててください」
 茉莉は家に入り、おがくずの中に保存していた栗を持って、裏庭にもどってきた。
「枯れ枝も結構ありますからね。うまく焼けると思いますよ」
 地面を少し掘って、その中に落ち葉と枯れ枝を入れる。栗を中心に置いて、紙縒りで火を差す。全体に火が回ったところで、上からさらに葉っぱや枝を足していく。
 自治体によっては焚火を規制しているところもあるが、とりあえずこのあたりは大丈夫だったはず。
「じゃ、おれ、ごはんの用意をしてきますんで。篁さん、ここで火の具合を見ていてくださいますか。消えそうになったら葉っぱを足してください」
「はーい。栗が焼けるまでここにいまーす」
 冬威は、上機嫌で答えた。
 いつもながら、まるで子供である。自分の興味のあることを任されると、途端にテンションが上がる。
「よろしくお願いします」
 そう言って、茉莉は家の中に入った。


 そして、約半時のち。
 魚も焼けて、まもなく栗ごはんも炊き上がるころ。
 冬威は焚き火の側にしゃがみこんでいた。
「まーだかなー」
 つんつんと、枯れ枝で焚き火をつつく。
 茉莉は思わず、頬をゆるませた。冬威の姿が、実際に五、六歳の子供に見えたのだ。空腹を満たすためだけではなく、ただなんとなくわくわくするという経験を、この男はしたことがないのだろうか。
「栗って、結構、時間がかかるんだねー」
 そう言って、冬威が焚き火をかき回そうとしたとき。
 パン、という音がして、栗がはじけた。
「……!」
 冬威は咄嗟に飛びのいて、反射的にバタフライナイフをかまえた。物騒なもんを持ってるんだな。ま、仕事上、必要な場合もあるんだろうが。
 冬威のあまりにも真剣な様子に、茉莉は思わず吹き出してしまった。
「なにやってんですか。栗がはじけただけでしょ」
「え……栗?」
 まじまじと、冬威は焚き火を見据えた。
「そうですよ。それを、まるで闇討ちにあったみたいに。たかが栗ひとつに、情けないですね」
 あまりにもめずらしい光景を見てしまったので、つい口がすべった。冬威の表情が、瞬時に凍りつく。
 しまった、と思ったときには遅かった。冬威はそっとナイフを仕舞うと、すたすたと家にもどっていった。
 気まずい雰囲気。茉莉は焼き上がった栗を拾い、玄関に回った。


 そして。
 冒頭の通りである。
「いらない」
 冬威は断固として夕食を拒否した。栗など、見るのも嫌なのかもしれない。茉莉はそう思って、自分の分だけを黙々と食べ、そそくさと後片づけに入った。
 冬威がここに来て、なにも食べないのははじめてだ。たかが栗、されど栗、なのかもしれない。
 片付けを終えて、茉莉はさてどうしたものかと腕を組んだ。すでに夜は更けている。食事もさせないままに追い返すのも忍びない。
「あの……」
 茉莉は声をかけた。
「茶漬け作ったら、食べます?」
 冬威は、ゆっくりと顔を上げた。
「いらない」
「でも……」
「そんなことより、蒲団、敷いてよ」
「は?」
「オレ、腹が減ってんだから」
 脈絡が、まったくない。
「ですから、なにか作ろうかと……」
「マリちゃんがいい」
 冬威の両手が、茉莉の肩をがっしりと掴んだ。
「え……ちょっと……」
「待たないよ」
 常とは違う、低い声。
「言ったでしょ。オレは、腹が減ってんだって」
 馬鹿野郎! おれはあんたの食料じゃねえぞっ。
 心の中で叫ぶ。しかし、それは実際の声にはならなかった。冬威の口が、それを封じたのだ。
 見事なほどに、茉莉の体は冬威に応えるように変化していく。
「……蒲団……敷けって……」
「もう、いい」
 くぐもる声。次々と与えられる熱。
 ああ、もう、どうとでもしてくれ。おれが悪かったよ。ちくしょう!
 脳裏に、収拾のつかない感情がうごめいて、茉莉はその状況に流された。


 いつにもまして、執拗な情交だった。しかも畳の上であったため、茉莉は背中に擦傷を負ってしまった。
 足を抱え上げられると、背中に自分の体重と行為の際の圧力とがかかる。たぶん、ところどころ皮が剥けているんだろうな……。体を横にして息を整えながら、茉莉はそんなことを考えた。
 体を拭いて寝間着を着たかったが、どうにも起き上がる気になれない。
 冬威はさっさと身繕いをして、奥に入っていったようだ。
 このまま放っておかれたら、風邪をひくかもしれない。茉莉はようやく、上体を起こした。
「あ、目が覚めた?」
 奥から、冬威が顔を出した。
 起きてたよ。ただ、起き上がれなかっただけで。茉莉はゆるゆると、冬威を見上げた。
「んじゃ、ちょっとこっちに来て〜」
 冬威の手が、茉莉の腕を掴む。奥の八畳間には、蒲団が敷いてあった。
「今度は、違う方法がいいなーっ」
「え……」
 茉莉は、頭の中が真っ白になった。
 つまり……もう一回、やるってこと?
「あの、それは、無理です」
 茉莉は後退りした。冬威はにっこりと笑った。
「無理じゃないように、するよ」
「でも……」
「オレ、まだおなかがすいてんだからさあ」
 完全に、切れている。
 食欲と性欲の区別もつかなくなっているのか。この男は。
「だから、ちょうだいよ」
 無邪気な声。のびてくる手。茉莉は、自分がとんでもないものに魅入られてしまったのだと、このときはじめて知った。


 結局。
 未明まで、茉莉は冬威に組み敷かれていた。交わった回数は、もう言うまい。
「欠勤届、出しとくね〜」
 混濁した意識の中で、冬威の飄々とした声を聞いたような気がした。
 欠勤届、か。気が利いてるよな。ありがたいよ。どう考えても、今日は仕事ができる状態じゃない。
 ……栗なんか、もう、二度と食わねえぞ。
 心の中で呟く。茉莉は蒲団に突っ伏して、うつらうつらと眠りに落ちた。


(THE END)