| 宿り木 by 近衛 遼 第六話 埃だらけのお姫さま このところ、体調が悪い。 医者にかかるほどではないが、朝はなかなか起きられないし、昼間は眠いし、そうかと思えば夜はなかなか眠れない。 ごく例外的に、泥のように眠れる日もある。が、それは就寝前にかなりハードなことをした場合であって……結局は、翌朝まで疲れを持ち越すことになってしまう。 茉莉は今日も、必死に生あくびと戦っていた。 「よっ。どしたんだい」 声とともに、いきなり背中を叩かれた。 「クマなんか作ってさ。さてはゆうべ、どこかで悪い遊びでもしてきたんだろ」 藤堂健はにんまりと、茉莉を見下ろした。 「……そんなこと、してませんって」 「悪い遊び」をしたのは、あの男の方だ。なにしろきのうは……。 思い出しかけて、やめた。こんなところで記憶をリピートしたら、とんでもないことになる。 「あれれ。ほんとに元気ないな。声の張りがぜんぜん違う」 心配そうに、顔を覗き込む。 「もしかして、篁に無理強いされたか?」 「え……むっ……無理強いって……」 思わず声がひっくり返った。 まさか、知ってるのか? 自分とあの男のカンケイを。 心臓がばくばくと音をたてている。冷や汗が一気に吹き出した。 「いい加減、報告書の一枚ぐらい自分で書きゃいいのになー。ここんとこ篁のやつ、やたらとたくさん仕事受けてるから、中間報告だけでもかなりの数だろ。おまえも相手が先輩だからって甘い顔してないで、たまにはバシッと断った方がいいぜ」 ……なんだ。報告書のことか。 茉莉はほっと胸を撫で下ろした。たしかに報告書の代筆は大変だが、そんなものはアレにくらべたらどうってことはない。ミソもクソもごっちゃになっている関連資料や領収書などの山から必要なものを発掘するのも、冬威の仕事のやり方とか段取りが頭に入っていれば、それほど手間はかからないから。 「はあ、まあ、できればそうします」 適当に言葉を濁して、答える。 「そうそう。無茶は禁物だぜー。じゃ、俺、飯食いにいってくるから」 ひらひらと手を振って、藤堂は事務所を出ていった。 「はーっ、びっくりした」 ドアが閉まる音を聞いてから、茉莉はぱったりとデスクに突っ伏した。 「『無茶は禁物』……か」 ぼそりと呟く。 無茶をしたのは、おれじゃない。あの男の方だ。急に長期の仕事が入ったからって、夜中にいきなりやってきて、朝まで解放してくれなかったんだから。 まったく、あのあと、まともに現場に行けたのかな。単独の潜入調査だ。ちょっとした気のゆるみでも命取りになる。 考えようによっては、あくびができる自分はまだ幸せなのかもしれない。とりあえず、いきなりうしろから刺される心配はないのだ。 茉莉は頭を切り替えて、きっちりとデスクの前にすわりなおした。 冬威が仕事を終えて帰ってきたのは、二週間後のことだった。 「マリちゃ〜ん」 夕刻。なんとも情けなさそうな声が、玄関から聞こえた。 「……篁さん?」 茉莉は流し台の水を止めて、ドアを開けた。 「おなかがすいたよーっ」 倒れ込むようにして、冬威は中に入ってきた。あわてて、受けとめる。 埃と汗の臭い。ところどころ、服が破けている。今回はだいぶヤバい仕事だったらしい。 「今夜のおかずは、なに〜?」 こんなときでも台詞は同じかよ。まったく、この男は……。 「きのこご飯と豚汁ですよ」 「うわー、豪華だねえ。オレ、二日ほどなーんにも食べてないんだよ」 その状態で、常食を食べたらまずいんじゃないだろうか。 「だったら、粥でも作りましょうか」 一応、訊いてみる。 「えーっ、オレ、きのこご飯がいい〜」 駄々っ子のように、冬威が言う。茉莉はため息をついた。 「わかりました。もうすぐできますから、待っててくださいね」 「はーい」 冬威は安心したのか、台所の床にごろんと横になってしまった。すぐに、寝息まで聞こえてくる。茉莉はあっけにとられて、薄汚れた服を着た冬威を見下ろした。 よっぽど疲れているんだな。無理もない。茉莉は奥から蒲団を取ってきて、冬威に掛けた。埃がついてもかまわない。無事に、帰ってきたんだし。 規則正しい寝息を聞きながら、茉莉はふたたび流し台の前に立った。 一時間後。 卓袱台の上には茶碗と湯呑みと汁椀と箸が二人分、きっちりと置かれていた。 「……どうするかな」 用意を終えて、茉莉は呟いた。冬威が一向に目をさまさないのだ。何度か名前を呼んだり肩をゆすったりしてみたが、すっかり熟睡している。 仕事帰りで疲れているのはわかっているので、このまま泊まってもらってもかまわないのだが、食事もしないで眠ってしまって大丈夫だろうか。しかも三和土(たたき)を上がってすぐの、板の間である。 「風邪、ひかれても困るしなあ」 茉莉は奥の八畳間に蒲団を敷いた。なんとか冬威を運ばなくては。 自分よりいくらか背の高い男を担ぐのは大変だ。かといって、ひきずっていくわけにもいかない。茉莉は意識不明の怪我人を搬送するときの要領で、冬威の上体を起こした。 実家が旅館を営んでいる関係で、年に一度は避難訓練に参加したり応急手当の研修を受けたりしている。それがこんなところで役に立つとは。 背に腕を回して、冬威を抱き上げる。見た目より重いな。そんなことを思いながら、奥へと移動した。 蒲団の上に降ろそうとひざをついたとき。 それまで力なく下がっていた冬威の腕が、するりと茉莉の首に回った。 「わっ……!」 いきなり首を引き寄せられた。茉莉はバランスを崩して、冬威を抱いたまま蒲団に倒れ込んだ。 「なにするんですかっ」 わけがわからずに、叫ぶ。 「うれしいなー」 間延びした声が、耳のすぐそばで聞こえた。 「蒲団まで運んでくれるなんて〜」 「……もしかして、ずっと起きてたんですか?」 謀られたのかも。 この男なら十分ありうる。いや、前例を挙げればきりがない。 「まさか〜。マリちゃんがオレを『お姫さま抱っこ』したときからだよー」 お……お姫さま抱っこ?? 目が点になった。だれがお姫さまだって? こんな性格の悪いお姫さまはご免だぞ。 「目が覚めたのなら、さっさとごはん、食べてください」 憮然として、言う。 「ごはん……だけ?」 「は?」 「マリちゃんは?」 出た。 たしか、二日も食べてないって言ってたっけ。この男はどういうわけか、とことん空腹になると、べつの欲求が沸き上がってくるらしい。 「……ごはんのあとです」 精一杯、譲歩する。今日は仕方ない。危険な仕事を終えて無事に帰ってきたんだから、ちゃんと付き合わねば。 茉莉が頭の中で懸命に自分を納得させていると、冬威の顔がずいっと近づいてきた。 「先がいい」 「は?」 「マリちゃんを、先にちょーだい」 ゆっくりと、囁くように言う。 唇が茉莉の頬に触れた。そこから耳へ、首筋へと移動する。茉莉は体が固まっていくのを感じた。 「ほしいんだもん。いますぐ」 声とともに態勢が入れ代わる。冬威の手が、茉莉の素肌をとらえた。 夜も更けてから。 冬威はにこにこと、丼にきのこご飯をよそって食べていた。豚汁も、もう三杯目である。 「マリちゃーん、お茶はどこ〜?」 八畳間に向かって、訊ねる。 「……麦茶が、冷蔵庫に……」 だるそうな声。 「わかったー」 明るく答えながら、冷蔵庫を開ける。 「マリちゃんも、麦茶いる?」 「……いまはいいです」 起き上がる気にもなれない。 茉莉は夜具に突っ伏したまま、うとうとしはじめた。このまま朝まで眠りたい。淡い期待を抱く。 無理かな。……無理だろうな。半月ぶりだし。 まあ、とにかく、自分でご飯をよそえるようになっててよかった。この状態で給仕までするのは嫌だ。 もっとも、これしきのことで「よかった」と思うなんて、なんとも情けない事態ではあるが。 「やっぱり、マリちゃんのごはんは美味しいね〜」 ほのぼのとした声が聞こえる。 「今度の仕事は、ほんっとにたいへんだったんだよー」 そうみたいだな。本当に、おつかれさま。 心の中で、ねぎらう。 もう目を開けていられなかった。冬威の声を遠くに聞きながら、茉莉は眠りに落ちていった。 (THE END) |