宿り木 by 近衛 遼




第二十五話 悲しき膨張率

 篁冬威は、はっきり言ってザルである。
 放っておけば、日本酒でも焼酎でもビールでもワインでもウィスキーでも、果ては口から火を噴きそうなウォッカやテキーラでも、際限なく飲み続けるだろう。それも、食事もろくに摂らずに。
 出会ったばかりのころ、水のようにウォッカを飲む冬威を見て、この人の体はどうなってるんだと思ったことがあったが、その後、茉莉が食事(と自分自身)を供するようになってからは、めっきり酒量も減った。
 もっとも、飲もうと思えば以前と同じように飲めるらしく、仕事先で酒場をハシゴしたり、事務所の同僚である藤堂たちと飲みに行くことはよくあった。ただ、茉莉の家では文字通りたしなむ程度にしか飲まなくなっていた。
「だって、マリちゃんに叱られるもーん」
 べつに、そのたびに文句を言っているわけではない。最初のころ、酒ばかり飲まれるのはいやだと思って、ひと通り食事に箸を付けるまで飲まないようにと言ったことがあったが、とくに厳密に禁酒を言い渡したことはなかった。
 ただ、決定的だったのは、この男とはじめて関係を持ったときのこと。
 冬威は新物の梅酒を携えて、茉莉の家にやってきた。
『あっさりしてて、飲みやすいと思うよー』
 たしかにそれは、口当たりがよくて美味しかった。ふだんはそれほど飲まない茉莉だったが、そのときはついつい盃を重ねてしまって、酔い潰れたところをこの男に襲われてしまったのだ。
 以来、茉莉は冬威が家に来たときは酒を飲まないようにしているし、冬威にもなるべく控えるように言っている。結果。
「マリちゃーん、コーラ飲んでもいーい?」
 冬威はビール代わりに缶コーラを大量に買い込んで、茉莉の家の冷蔵庫に保存していた。
 なんだって、こんなにたくさん買うんだ。コーラなんて、一度に一本か二本飲めば十分だろうに。
 酒なら、まだわかる。死んだ茉莉の父親も酒豪で、ひと晩に一升瓶を何本も空けて、けろりとしていたような人だったから。が、コーラやジュースをがぶ飲みするのは、どうも理解できない。
「もうすぐ夕飯ですから、やめておいてください」
「えーっ、今日はオレ、七本しか飲んでないのに〜」
 ……七本「しか」だと?
 茉莉はぴくりとこめかみを震わせた。
 今日は休日。昼間から「マリちゃーん、おなかすーいたっ」と茉莉宅に押しかけてきた精神年齢五歳の男は、昼食の焼きそばを四人前たいらげたあと、例によって「日本の昔話」やら「イソップ童話」やらを読んで勉強(?)していたのだが、その間、なんと冷蔵庫に詰め込んであるコーラを七本「も」飲んでいた。
「それだけ飲めば、十分です」
「でも〜」
「篁さん」
「なーに?」
「晩ご飯、要らないんですか?」
「えーーーーっっ。要るよ、要るっ! マリちゃんのごはんも、マリちゃんもっ!!」
 後半部分にすこぶる不適当な表現があったのは聞かなかったことにして、茉莉はぴしりと宣言した。
「でしたら、おれが豚肉のショウガ焼きとワカメの酢の物と湯豆腐を作っているあいだ、昔話の続きを読んで待っててください」
 わざと、メニューを羅列する。
「うわあ、今日もごちそうだね〜」
 ぱあっと、冬威の顔が明るくなった。
「わかった。待ってるー。あ、でも、味噌汁はないの?」
「……ありますよ」
 ふつう、湯豆腐のときは汁ものは作らないのだが、今日は冬威がいるので念のために用意した。
 よかった。やっぱり「備えあれば憂いなし」だよな。しみじみと実感しつつ、
「具は、竹輪と大根です」
 重々しく告げる。
「やったあ。だーいこん、だーいこん、うれしいなーっ」
 例によって、勝手に節をつけて歌いだした。茉莉は脱力感を感じながらも、とりあえず八本目のコーラを阻止したのだった。


 こんなことなら、さっき冬威にコーラを飲ませておけばよかったかも……。
 三十分後。茉莉は冷蔵庫の前で固まっていた。
 なんだよ。どうして、こうなるんだ。ものごころついてから二十年あまり、こんな状況になったことはないぞ。
 酢の物も湯豆腐も出来上がり、いざメインのショウガ焼きを……と思って冷蔵庫を開けたところ。中は焦げ茶色の液体が飛び散り、悲惨な状態になっていた。
 醤油かな。いや、めんつゆかも……。キャップをしっかり閉めてなかったのかもしれないが、それにしてはやたらと広範囲に汚れている。おそるおそる手を伸ばして、漬物の入ったタッパーを取り出してみた。当然ながら、その蓋の上も焦げ茶色の液体が溜まっている。
なんとなく、甘い匂い。これって、もしかして……。
 よくよく見ると、ぷつふぷつと発泡している箇所もある。
 コーラだ。なんとなく、ベタベタしている。いったい、どうしてコーラが……。
 茉莉はくるりと振り向いた。
「篁さん」
「なあに〜?」
「もしかして、おれが見てないあいだにコーラを飲んだんですか」
「え?」
「ですから、こっそりコーラを……」
「飲んでないよー」
 いかにも不本意といった顔で、冬威は言った。
「マリちゃん、さっきダメだって言ったじゃんか」
 たしかにそう言ったが、それでも我慢できずに隠れて飲んで、飲み残しを冷蔵庫の奥に入れようとして、うっかりこぼしたのかもしれない。茉莉はそう思っていたのだが。
 冬威はじっとりと茉莉を見つめた。
「オレ、マリちゃんのごはん食べたいし、それにマリちゃんも……」
 またかよ。それはもういいって。茉莉は大きくため息をついた。
 つまりは、この惨状は冬威のせいではないわけだ。茉莉はバケツと雑巾と洗剤を用意した。とにかく、冷蔵庫の中を徹底的に掃除しなくては。
 そろそろと中を窺う。奥の方に、妙な形態をしたアルミ缶があった。
 ……………これか。
 茉莉は理解した。どうやら、奥に押し込んでいたコーラの缶が凍りついて、中身が膨張してしまったらしい。
 じつは以前、冷蔵庫の奥に豆腐を置いていてシャーベット状態にしたことがあったのだが、今回はさらに上をいったようだ。缶コーラは見事に破裂してしまったのだから。
 液体の膨張率は、油断できない。茉莉は黙々と冷蔵庫の内部と周辺の掃除にかかった。
「どしたの、マリちゃん」
 まったく、ちっとも、これっぽっちも状況を把握していないらしい男が、モスグリーンの瞳を見開いて言った。
「オレ、おなかすいたんだけどなー」
「非常事態です。見てわかりませんか」
 自棄になって言うと、冬威は目をぱちくりとして、
「じゃあ、晩ごはんは……」
「ここを片付けるまで、待ってください」
「えーーーっ。そんなあ。ひどいよ、マリちゃん〜」
 なにが「ひどい」だよ。そんなこと言ってるヒマがあったら、少しは手伝えってんだ。
 そう叫びそうになったが、かろうじて自制する。茉莉は考えた。この男を空腹なままおいておくよりは、なにかハラに詰めておく方がいいかも……。
「わかりました」
 茉莉は言った。
「ごはんは、炊けてます」
「うん」
「味噌汁もたっぷりありますから」
「うんうん」
「申し訳ありませんが、とりあえずそちらで召し上がってていただけませんか」
 苦肉の策で、セルフサービスを提案した。冬威はぱっと立ち上がり、
「うんっ。わかった。待ってるねー」
 どうやら、食欲が優先したらしい。冬威はご飯茶碗を手に、ほくほくと炊飯器に向かった。
 よし。とりあえず、これでいい。あとはこの、廃虚と化した冷蔵庫をなんとかしないと……。
 冬威が炊き立てごはんと味噌汁とほうじ茶を堪能しているあいだ、茉莉は悲しいまでの状況になった冷蔵庫と対峙していたのであった。
 そして、さらにその数時間後。


「オレ、ちゃんと待ってたんだからさ〜」
 期待に満ちた顔で蒲団に入ってきた男に、茉莉は拒絶の言葉を発することはできなかったようである。


  (THE END)