| 宿り木 by 近衛 遼 第二十四話 ビンボー人、鍋を囲む 冗談じゃないぞ、まったく。 とある夕方。商店街の八百屋の前で、三剣茉莉は眉間にしわを寄せていた。 夏から秋にかけて異常気象だったせいか、最近やけに野菜が高い。菜ものも根菜類も軒並み三倍から四倍の高値で、かろうじて平年並みの値段なのは芋類と玉ネギとニンジン、それにキノコ類ぐらいのものだ。 これじゃ、今年は鍋はあきらめるしかないかな。茉莉は嘆息した。 寒い季節はやはり鍋料理がおいしい。支度は簡単だし洗い物も少ないし、なんといってもあの男が急に晩飯を食べにやってきても、あわてなくて済む。 篁冬威。菅原事務所の敏腕調査員にして「トラブルプレイヤー」だの「ロシアンルーレット」だの「精神年齢五歳」だのと称される男は、電話の一本も入れずに茉莉の家に来ることが多い。おおよそ週に二回の割合だが、習い事のように何曜日と決まっているわけではないので、来るかと思っていたら来なくて、来ないと思って前日の残り物で済まそうとしているときに来たりして、なにかと大変なのだ。 仕方ない。とりあえず安い食材だけ買って帰って、メニューはそれから考えよう。たぶん今日は、あの男は来ないだろうし。 そこまで考えて、いざ買い物を……と八百屋の中に入ろうとしたとき。 「だぁーーーれだっ」 いきなり、目隠しをされた。 「……………」 時は夕刻。帰宅途中のサラリーマンや学生、それに夕飯の買い物に来た近所の主婦たちが行き交う商店街のド真ん中である。 「あれえ、わかんない? オレだよ〜」 わかってるよ。できればわかりたくないが、しっかりわかっているとも。けど、なあ………。 茉莉はゆっくりと振り返った。 「……篁さん」 「あ、なーんだ。わかってたの? もー、マリちゃんのいぢわる〜」 おねえキャラのごとく身をくねらせる。茉莉はこめかみに軽い痺れを感じた。 「何度も言うようですが、公衆の面前で悪ふざけはやめてください」 重々しく言うと、冬威は拗ねたように、 「そんなに怒んないでよー。久しぶりにマリちゃんに会えたから、オレ、うれしくってさあ」 なにが「久しぶり」だよ。おとといの夜、肉じゃがと蓮根の酢の物とシジミ汁を山ほど食べた上に、しっかりばっちりアレもやりまくったくせに。それに、あのあと急な仕事が入って、香港に行ったはずじゃなかったのか? その疑問を口にすると、冬威はうんうんと頷きつつ、 「行ったよー。でも荷物届けるだけだったから、すぐに帰ってきた」 「荷物?」 「うーんとね、あんまりくわしいことしゃべっちゃダメって所長に言われてるんだけど……」 冬威はぼそぼそと、今回の仕事の概要を語った。 ……聞くんじゃなかった。 後悔先に立たず。茉莉はいま聞いた内容を頭の中からデリートした。いや、実際にはできないのだが、意識的に忘れることに決めた。 前々からヤバいことに手を出しているとは思っていたが、どうやら菅原事務所というのは、高飛びの請負のようなこともやっているらしい。もっとも、今回の件は、とある裁判の証人の身柄を保護するための緊急避難的なものらしいが。 「ねえねえ、マリちゃん。オレ、空港から直行してきたんで、おなかすいてるのよ〜。今日のおかずはなーに?」 あいかわらず、ぺったりとひっついたまま、言う。周囲の視線が気にはなったが、下手に騒いではますます耳目を集めてしまう。ここはさっさと買い物を済ませて帰ろう。 「まだ決まってません」 「だったらさー、オレ、鍋がいいなー。豚肉たくさん入ってるやつ」 なんで、よりにもよって鍋なんだ。茉莉はちろりと冬威をにらんだ。白菜も春菊も大根もべらぼうに高いんだぞ。しかもいまは給料日前。ただでさえ懐が寒いのに、そんな散財はできない。 「すみません、篁さん。鍋物はちょっと……」 「えーっ、どうしてよ。マリちゃん、寒い時期は白い野菜がおいしくなるって言ってたじゃんかー」 そういえば、そんなことを言った覚えはある。が、いまそれを思い出さなくてもいい。茉莉は軽く咳払いした。 「今年は、野菜の値段が高騰してるんです。いくらおいしいとはいえ、白菜に千円も出すのは馬鹿げています」 そうだとも。千円あれば、某ファミレスのランチバイキングが食べられるし、ホカ弁のスペシャル幕の内御膳も食べられる。あるいは、輸入牛肉のステーキなら二枚は確実に買えるし、百円均一の回転寿司なら十皿いける。交換価値を考えても、ここで白菜を買う気にはなれない。 「うーん、そうかー。じゃ、安い野菜にすればいいんだねー」 それが少ないから困ってるんだ。「鍋」にこだわるんなら、ジャガイモやニンジンで洋風鍋でもするかな。いっそのことカレーにしてくれりゃラクなんだが。 あれこれと考えていると、冬威が突然、素っ頓狂な声を出した。 「あーーーーーっっ! あったっ。あったよ、マリちゃん。すっごくやすーーい野菜!!」 頼むから、これ以上目立つ真似はやめてほしい。げんなりとしたまま、茉莉は冬威の指差す方向を見た。 なるほど。たしかに安い。 太モヤシ、二袋三十九円。 一袋でも安いのに、二袋だと? これは冬威が言うまでもなく「買い」だな。炒めものにしてもいいし、さっと茹でてごまあえにしても美味しい。味噌汁やラーメンの具にも使えるし、けっこう使い出があるかも。 茉莉はモヤシを二袋、カゴに入れた。 「あれえ、ふたつだけ?」 冬威が口をはさむ。 「ふたつあれば十分でしょう」 「足らないよー」 「どうしてです」 「だって、お鍋、するんでしょ?」 どうしても、鍋料理から思考が離れないらしい。まあ、モヤシと豚肉でも鍋物はできる。ごちゃごちゃ言われるのもうっとおしいし、今日はモヤシ鍋にしてしまおう。 「……そうですね。じゃ、あと二袋、取ってください」 「はーいっ。あ、これも安いよー。エノキふたつで八十九円。しいたけは十個で九十九円だってー」 はいはい。わかったよ。買えばいいんだろ。 茉莉は半ば自棄になって、冬威とともに夕飯の買い物を続けた。 結果。 四人前の原価が約八百円という、見事にリーズナブルな鍋が出来上がった。 「うわあ、おいしそうだねー。いっただきまーすっ」 冬威はほくほく顔で、モヤシをがばっと引き上げた。はぐはぐとそれを頬張る。二袋三十九円のモヤシで、こんなにしあわせそうな顔になれるのはこの男ぐらいのものだろう。 「それはそうとさー。昔話だとタヌキ汁とかキジ鍋とか出てくるけど、そーゆーのはどこに売ってるの」 「どこにって……タヌキが、ですか?」 急になにを言い出すんだ。そこはかとなく、ほのぼのとした気分に浸っていたのに。 「うん。商店街の肉屋にもスーパーにも置いてないでしょ。専門店じゃなきゃダメなのかな」 一瞬、「たぬき有ります」などと墨書された看板が目に浮かんでしまった。いけないいけない。だいぶ冬威の思考に毒されている。 どうやらまた、民話や昔話の本の影響を受けたらしい。いろいろ「勉強」してくれるのはうれしいが、現実とフィクションの区別がいまひとつなのが問題だ。 「いまは、たぬきを食用にしている人はいないと思いますけど」 少なくとも、日本国内では。 「ふーん、つまんないな〜。一回食べてみたいと思ってたのに」 食に対する関心が出てきたのは喜ばしいことだが、タヌキだのキジだのに興味を持たなくていい。 「あ、ほら、篁さん。豚肉、もう煮えましたよ」 話を変えようと、菜箸で肉をつまむ。それを冬威の玉割り(小鉢)に運び、 「肉は熱を加えすぎると、パサパサになっちゃいますから」 思い切りワザを駆使して微笑むと、 「マリちゃんて、やさしー」 冬威はモスグリーンの目を潤ませて、言った。 なにやら異様に盛り上がっている。この様子だと、また今日も泊まっていくんだろうな。中一日ってのは、じつはちょっとキツいんだけど。 そんな茉莉の心中を知るはずもなく。 「やっぱり、マリちゃんの愛がサイコーの御馳走だねーっ」 精神年齢五歳の男は、鍋に山盛りのモヤシを上機嫌で崩していったのだった。 (THE END) |