宿り木 by 近衛 遼




第二十一話 祈りを捧げる男

ACT9

 五日間の特別休暇が終わった。久しぶりに定刻に出勤すると、
「よおっす、三剣」
 事務所の前で、ばしんと背中を叩かれた。藤堂だ。
「あ、おはようございます」
 茉莉はぺこりと頭を下げた。
「金一封の上に有休なんて、うまいことやったなあ。どっか遊びにいったか?」
「え、はあ、まあ、近所をぶらぶらと……」
 適当にぼかして答える。
「なんだ。もったいない。五日もあったんだから、遠出すりゃよかったのに」
 行けるわけないじゃないか。休暇初日がアレで、そのあとも毎日「見舞い」と称してあの男が通ってきていたんだから。
 どう話を繋ごうかと迷っていると、
「あー、そっか。いまカノジョいないのか、おまえ」
 藤堂はにんまりと笑った。
「そりゃワビしいよなー」
 ひとりで納得している。
 たしかに「彼女」はいないよな。茉莉は心の中で苦笑した。代わりに、とんでもないやつが約一名いるけど。
 ほんとに、とんでもなかった。あのあと冬威は当然のように茉莉の家に泊まり(さすがにもう××はなかったが)、翌日からは仕事のあとに花やらケーキやらを持って日参したのだ。
 自分のやったことが「悪いこと」だと認識してくれたのは、うれしい。が、ものには限度ってものがある。よほどの甘党でもないかぎり、毎日毎日、ケーキやクッキーや饅頭を食べたいとは思わない。それなのにあの男は、連日、判で押したように花束と菓子を持ってきた。
「今日はこれ、おまけしてもらったんだよ〜」
 昨夜。商店街の花屋にしっかり顔を覚えられたらしい冬威が、にこにこして言った。
「花屋のおじさん、『あとひと押しだよ。がんばんな』だって。なんのこと言ってんだろうねー」
 ……そりゃ思いっきり誤解されてるぞ。
 花屋のおやじは顔に似合わずロマンチストである。深草少将よろしく百夜通いを宣して、美人のおかみさんをゲットした話は有名だ。
 茉莉は花束を受け取りながら、深いため息をついた。
 男の独り暮しである。そんなにたくさん花瓶などない。水差しやら水筒やらコップやら、果ては掃除用のバケツにそれらの花々は入れられている。もっとも、冬威はそれを気にする様子もなく、ただ自分が買い求めた花や菓子を受け取ってもらうことだけで満足しているようだった。
 そんなこんなで茉莉は休暇のあいだ、まったく全然これっぽっちも、ゆっくりできなかったのである。
「ああ、三剣くん。おはよう」
 事務所に入ると、所長の菅原がコーヒーカップ片手に近づいてきた。
「休み明け早々に悪いんだけど」
「はあ、なんでしょうか」
「桜井コーポレーションの会長から、依頼が来てまして。打ち合わせに行ってきてくれませんか」
「打ち合わせって……おれがですか?」
「先方はいたくきみが気に入ったみたいでしてねえ。今後、桜井グループとの折衝は三剣くんが担当してください」
 どうやら、もうしっかり話はついているらしい。尊文が言っていたのは冗談ではなかったのだ。
「一応、十時にアポを取っておきましたから」
 菅原はキャッシュカードのようなものを茉莉の眼前に差し出した。例のIDカードだ。
「よろしくお願いしますよ」
 にこやかに念を押された。これはもう、逃げられないな。茉莉は観念して、カードを受け取った。


 桜井コーポレーションの会長、桜井尊正(たかまさ)は、古希を過ぎているとはとても思えぬほど若々しい人物だった。
「尊文が世話になった」
 開口一番、尊正は言った。
「これからも、世話になる」
 淡々とした口調。茉莉は黙って、頭を下げた。
「当座の経費は振り込んでおいた。くわしいことは園田に訊いてくれ」
 尊正は後ろにいた白髪の秘書に書類袋を渡した。園田はゆっくりと頷き、
「では、こちらへ」
 柔和な顔で促す。茉莉は園田とともに会長室を出た。


 打ち合わせを終えて、茉莉が桜井コーポレーションの本社ビルをあとにしたのは、それから約二時間後のことだった。
「年寄りの話は長くて困るよなあ」
 肩をとんとんと叩きながら、独白する。
 さあて、これから事務所に戻って概要を報告して、あとは休んでいたあいだの事務処理をしなくては。上中野や雛はこまめにデスクワークをこなすが、藤堂はかなりアバウトだし、冬威に至ってはその類の能力はゼロに近い。
 今日中には終わらないかもしれないな。今朝、ちらりと見た未処理の書類の山を思い出す。
 まあ、でも、量は多くても慣れた仕事の方が気がラクだ。茉莉は頭を切り替えて、地下鉄の駅へと向かった。
 昼飯、食べてから帰ろうか。今日は弁当も持ってきてないし。そんなことを考えながら歩いていると、
「おい」
 いきなり二の腕を掴まれた。痛い。反射的に払おうとしたが、びくともしなかった。
「なっ……なんですか!」
 振り向いて見上げる。そこにいたのは。
「あ……」
 茉莉は目を見開いた。
「あなたは、あのときの……」
「本社になんの用だ」
 アパートの前で尊文と言い争っていた男だった。黒縁眼鏡の奥の目は、すっかりすわっている。
「仕事の打ち合わせですけど」
「仕事?」
 男は片方の頬を歪ませた。
「ふん。シケた興信所に、どんな『仕事』があるってんだよ。ゆすりにでも来たのか?」
 ぎり。腕がひねりあげられた。
「今度フミに近づいてみろ。ただじゃおかないからな」
 完全に誤解している。たしかに、あのときの尊文の振る舞いを見れば、勘違いするのも頷けるが。
「聞いてるのか、おまえ……」
「ヒロ」
 うしろから玲瓏な声がした。瞬時に、男の手が離れる。
「フミ……」
「暴行と脅迫の現行犯だね」
 尊文が茉莉と男のあいだに割って入った。
「会長は菅原事務所と年間契約を結んだ。三剣さんは、その打ち合わせにみえたんだ。なにか不明な点でも?」
「契約って……おい、やっぱり、フミのことで会長を脅して……」
 再び手がのびてきた。それを尊文がさえぎり、流れるような動作で横に払った。
「きみはぼくを侮辱するのか!」
 ぴしゃりと、尊文は言った。
「たしかにぼくは八年間、特殊な世界にいた。しかし、自分に恥じるようなことはなにひとつしていない」
 ヒロと呼ばれた男は、呆然として立ちすくんだ。
「フミ……俺は、そんなつもりじゃ……」
「なら、自分のやったことをもう一度よく考えろ」
 くるりと踵を返す。
「行きましょうか」
「え、あ、はい」
 茉莉は小さく頷いた。とりあえず、この場を離れなければ。
 やたらと強烈な視線を背に感じながら、茉莉は尊文のあとについて地下鉄のホームへと降りていった。