宿り木 by 近衛 遼




第二十一話 祈りを捧げる男

ACT8

 空気が凍った。ごまかしようもないほど、明確に。
「I see」
 短く答えて、尊文が出ていく。その背を、冬威は目だけで追った。表情はない。まるで機械のようだ。
 たっぷり十秒。尊文が自分の車に乗り込むのを確認してから、冬威は茉莉に視線を移した。扉を後ろ手に閉める。鍵のかかる音が、いやに大きく聞こえた。
「…………」
 何事か呟く。聞き取れなかった。独り言のような、早口の英語。
「篁さ……」
 問いかけようとしたところを、遮られた。荒々しい口付け。そのまま板の間に倒れ込む。どん、と背中を打った。一瞬、息ができなくなる。
 冬威の手が熱を求めて彷徨した。
「……っ!」
 痛いほどの愛撫。
 なんだよ。あんた、まだ靴も脱いでないだろうが。これじゃまるで、いや、きっぱりはっきり、ゴーカンじゃねえか。おれにはこういうプレイのシュミはないぞ。だいたい男となんて、あんたじゃなきゃ……。
 ……………うわ。
 おれ、いま、なんてこと考えたんだ?
 思いっきり、自分で自分の首しめたぞ。しかも足元の踏台、蹴っちまった。

 冬威が中に入ってくる。準備などなにもできていない場所に。
「んっ……あ…ああっ!」
 声を出した。いつもだったら我慢するけど、今日はできない。
 もう踏台はないんだから。このままいったら、マジで危ないんだから。
 全部、出した。声も表情も動きも。内側から溢れてくるものを全部。
 外にまで聞こえたかもしれない。が、いまはそんなことを云々している場合じゃない。
 そうだとも。いざとなったら引っ越せばいい。それだけのことだ。
 熱くて冷たい炎。それが内部をえぐる。深く激しく、奪い取っていく。
 やっぱりこの男、メシ食わさないとダメだよな。「これ」だけで、ふたつぶんの欲求を満たそうとするんだから。
 離れていた時間×2、プラスアルファ。今回はなんだか、余計なオプションが付きすぎだ。いつになったら、どこまでいったら満足するのか見当もつかない。
 息が上がる。耳鳴りがする。目の前がぼやけてくる。
 遠近感も平衡感覚もなくなって、いま自分がどういう状態にあるのかもわからなくなった。
『……茉莉』
 意識が途切れる直前に、耳元で名前を呼ばれたような気がした。


 ひやりとした感覚。茉莉はそろそろと目を開けた。
 額に冷たいものが乗っている。手拭いだ。氷水でしぼってあるらしい。
 見慣れた天井。八畳間だな。鉛のように重い四肢と、脈動に合わせて痛みを訴える腰。仰臥しているのがつらかった。
「……うっ……」
 寝返りを打とうとして、さらなる痛みに顔を歪める。濡れ手拭いが敷布の上に落ちた。それを取ろうと、ゆるゆると手をのばしたとき。
 八畳間の隅で、ひざを抱えている栗色の髪の男と目が合った。
 びくり。薄いモスグリーンの瞳が揺れている。
 まるで別人だった。いつもの冬威じゃない。さっきの冬威でもない。なんとなく、いま拾ってきたばかりの小犬のようだ。
 おい。なにやってんだよ、そんなとこで。手拭い用意してくれたんだろう。だったら、ちゃんと最後まで手当てしろよ。おれはあんたが風邪ひいたときも、腹こわしたときも看病してやったんだからさ。もっともそのあと、恩を仇で返されたけど。
 一瞬のあいだに、そんなことを考えた。ほんとはちゃんと言葉にしたかったが、いかんせん、うまく声が出ない。
「た……」
 名前を呼ぼうとした。せめて、あんたの名前を。
「たか……むら…さん」
 言えた。ほっとする。手をのばした。もちろん届かないのはわかっていたが。
 信じられないものを見るように、冬威は茉莉の手と顔を見比べている。何度も、何度も。
「水……ください」
 実際、のどがカラカラだった。冬威はぎくしゃくとした動きで立ち上がった。部屋を出て、台所へ向かう。
 ガタン。ゴン。ガシャン。
 ……またなにか、壊したな。音を聞く限りでは、コップが二つといったところか。ガラスはあとの掃除がたいへんなんだぞ。
 そんなことを考えていると、冬威がコップになみなみと水を入れてきた。当然ながら、ボタボタと畳の上にこぼれる。
 いい加減に、適量ってもんを覚えろよな。小さくため息をつきつつ、茉莉は起き上がろうとした。
「……!」
 思いきり腰に響く。こりゃかなり、ひどい状態だな。
 たしかに、ここまでやられたのははじめてかもしれない。いままで焼き栗のときがワースト1だったが、今回は記録を塗り替えたかも。
 痛みをこらえていると、
「まつり……」
 常とは違う声で、冬威は言った。顔を上げると、そこには潤んだふたつの瞳があった。
「おれを、ころしてもいいよ」
 コップの横に、見覚えのあるバタフライナイフとサバイバルナイフ。
 ……まじかよ。
 茉莉はぐっと唇を結んだ。
 あっちこっちボロボロだけど、そんなことかまってられるか。ありったけの力を込めて、なんとか上体を起こす。両手でナイフを掴んだ。
 馬鹿野郎。笑ってんじゃねえ。
 そうなのだ。冬威は笑っていた。茉莉がナイフを手にしたときに。
 きれいだった。前々から思っていたが、冬威の顔はだれかが最高の材料を集めて作ったみたいにきれいだ。
 んなキレイな顔して、空恐ろしいこと言うな。こちとら、ごくごく一般的な日本国民なんだぞ。あんたの都合に付き合ってるわけにはいかないんだ。だから。
 茉莉は渾身の力を込めて、ナイフをとなりの部屋に向かって投げつけた。
 どうせ、割れたコップの掃除をしなくちゃいけない。なら、あと少しぐらい床が傷つこうが、なにか壊れようが知ったことか。もちろん、敷金は戻ってこないだろうけど。
「おれ……疲れてるんですよ」
 やっとのことで、言う。
「冗談なんか言ってないで、晩飯の用意、してくれませんか」
「ばっ……晩メシ?」
 あっけにとられた顔で、冬威。
「そうです。なにしろ、今日は昼飯を食べてないんで……」
 事実だった。
 昨夜、冬威が来なかったことを深く考えそうになって、それを紛らわすために家事に没頭していたから。
「ええと、でも……」
 わずかにいつもの表情を取り戻し、冬威は頭をかいた。
「オレ、どうしたらいいかよくわかんないし、やっぱりマリちゃんのごはんの方がうれしいなー、と……」
 困ったような、モスグリーンの瞳。なるほどね。茉莉は納得した。
 よし。だったら、食わせてやるよ。「マリちゃんのごはん」を。きのう、ちゃんと作ったんだから。
「わかりました」
 ずるずると、蒲団から這い出す。
 とてもじゃないが、立ち上がれない。なんとか六畳間まで移動して、予想通りに割れていたコップと、さっき自分で放り投げたナイフをゴミ箱に捨てた。
 コップはいつぞやの晦日市で買ってきた安物だが、ナイフはふたつとも一点ものらしい。あとで拾って、質屋にでも持っていってやろうかな。
 とことん小市民な考えが浮かぶ。なにしろ、冬威のおかげでこのところエンゲル係数が急激に上がっていて、月末はそれなりにたいへんなのだ。
 冷蔵庫を開けて、赤魚の煮付けとほうれん草のごまあえを出す。それから冷凍庫に入れておいた焼鳥も。ごはんはおにぎりにして冷凍してあったので、温めて海苔を巻けばいい。吸い物の具は玉子豆腐とワカメ。これはタッパーに入れていつでも使えるようになっていた。
 だいたいの用意が整ってから、茉莉はちろりと二メートルばかり離れたところにいる栗色の髪の男をにらんだ。あいかわらず、びくびくとこちらを見ている。
「いつまで、そこにいるんですか」
 かなり、まともな声が出るようになった。
「さっさと食べてください。後片付けは篁さんの担当ですからね」
 モスグリーンの双眸が、これ以上はないというぐらい、まん丸になった。そして数瞬後。
「はーいっ。いっただきまーす!」
 ぴょんと飛び上がり、冬威はスキップをするような足取りで卓袱台の前にすわった。
「このおさかなは、あっためなくていいの〜?」
「そのままで、いいです。にこごりが美味しいんで……」
 自由にならない体に鞭打って、茉莉は夕飯を卓袱台に並べた。そのほとんどは、昨夜のメニューをスライドさせただけだったが。
 卓袱台の上の料理が、ほぼなくなったころ。
「あー、やっぱり、マリちゃんのごはんはおいし〜」
 冬威はやっと、いつものセリフを口にした。その顔には、先刻、茉莉を完膚なきまでにした男の面影はない。そこにいたのは。
 まっすぐで、わがままで、自分勝手で正直で。ほしいものをほしいとしか言えない、精神年齢五歳の「篁冬威」だった。