| 宿り木 by 近衛 遼 第二十一話 祈りを捧げる男 ACT7 冬威の運転する車で送ってもらい、茉莉は六日ぶりに自宅のドアを開けた。 なんとなく湿った匂い。窓を開けて、コンロの上の換気扇を回した。六日のあいだ閉じ込められていた空気を外へと逃がす。 汚れ物を洗濯機に放り込むと、茉莉は商店街に買い物に出かけた。 洗濯なんかあしたでいい。とにかく、晩飯の用意をしなくては。 ここまでくると、条件反射だな。心の中で苦笑する。 あの男に飯を作ること。それが、「日常」に戻る儀式のようでさえある。義務とか惰性とか、そんなふうに思っていたのに。 「あらあ、久しぶりだねえ」 馴染みの八百屋のおかみさんに、腕をばしんと叩かれた。 「カノジョとどっか遊びに行ってたのかい」 「違いますよ。仕事で、ちょっと……」 「あらあら。それじゃ、カノジョはだいぶおかんむりでしょ。しっかりサービスしてやんなきゃ」 からからと笑う。 サービス、ねえ。……しなきゃなんないだろうな。今夜は、きっと。 食事だけじゃない。あっちの方も……もしかしなくても、フルコースだったりして。 まあ、菅原から特別休暇をもらってるし、今日ぐらいはムリしてもいいか。 そんなふうに考えるようになった自分に少なからず驚くが、いまさらどうしようもない。茉莉は八百屋のおかみさんにひやかされながらも、いくつかの野菜を買った。そのあと肉屋や魚屋にも寄り、さらには酒屋にも寄ってから帰宅した。 とりあえず、食材はそろった。定時まで事務所にいるとして、冬威がここに来るのは一時間後ぐらいか。茉莉は早速、調理にとりかかった。 おかしい。 午後十一時。茉莉は用意していた料理を冷蔵庫(一部は冷凍庫)に仕舞った。 なにか急な仕事でも入ったのだろうか。この状況で、あの男がここに来ないのは不思議だった。 ああ、でも。 あのときの冬威は、いつもの彼ではなかった。 『My toy』 菅原にそう呼ばれたとき。 冬威は、まるで生命活動を停止したかのように固まってしまった。 あの言葉にどんな意味があるんだろう。自分にはまったくわからないし、わかってはいけないのかもしれない。あの男が引いたのだ。菅原の言葉ひとつで。 『オレはねえ、マリちゃんが好きなの』 『好きだから、抱いたんだよ』 そう言って、こっちの気持ちも都合も、なにも斟酌しなかったあの男が。 ゆっくりと、いやになるほど、ゆっくりと時間が流れていく。茉莉はその夜を、まんじりともせずに過ごした。 結局。 冬威は来なかった。電話もなかった。メールの一文も。 いままで、こちらから連絡をとったことはなかった。とる必要もなかった。いい加減にしろと言いたくなるほど、しょっちゅう茉莉の家に押しかけて来ていたし、事務所でも朝に夕に「マリちゃーんっ」と抱きついてきていたから。 茉莉はぼんやりと、朝の光を見つめた。 どうしようか。今日一日。 ああ、そうだ。洗濯をしなくては。それに掃除も。天気もいいし、蒲団も干して……。 茉莉は、ただ機械的に作業に没頭した。ほかのことを考えてはいけない。とくにあの男のことは。 うっかり考えてしまったら、なにもできなくなってしまう。動けなくなってしまう。それが、たまらなく怖かった。 淡々と半日あまりが過ぎていった。そして、午後遅くになって。 「ごめんください」 やや高音の、澄んだ声が玄関から聞こえた。 だれだろう。冬威ではない。きびきびした、よく通る声。 「はい、どちらさまで……」 扉を開ける。そこにいたのは、灰青のスーツ姿の青年だった。耳がかくれるほどの、ストレートの黒髪。つややかな黒い瞳がまっすぐに向けられていた。 「え……あっ……あの、もしかして……」 茉莉は舌をかみそうになりながら、目の前にいる青年を見据えた。 「さっ……桜井さん?」 「はい」 青年はにこやかに微笑んだ。 「このたびは、お世話になりました」 優雅に一礼する。 「どうしても、お礼が言いたくて。失礼だとは思ったんですが、菅原さんにこちらの住所を教えてもらいました」 「お礼?」 なんのことだ。自分はなにもしなかった。ただ何度も失態を演じただけで、まともに説得もできなかったのに。 それなのに、なぜ尊文は実家に戻ったんだろう。あんなに長かった黒髪をばっさり切って、男の姿になって。 尊文はもう「桜井尊子」でも、もちろん「エレナ」でもなかった。いくぶんおとなしい印象はあるが、まちがいなく「桜井尊文」だ。 「三剣さん」 尊文は右手を差し出した。反射的にその手を取る。 「ぼくは、もう逃げませんから」 ぐっと握り締めて、尊文は言った。 「桜井さん……」 「あなたのおかげです。ありがとうございます」 「おれのって、それは、どういう……」 「篁さんにも、よろしくお伝えください」 「はあ?」 ますます話が見えない。茉莉は首をかしげた。尊文は、ほんの少し「尊子」の顔になってくすりと笑った。 「あなたも、いろいろとたいへんみたいですね」 「え、あ、まあ……」 なんのことを言っているのかは判然としなかったが、自分の置かれている状況が世間一般の常識からすれば「大変」な範疇に入るだろうことは認識していたので、とりあえず頷いた。尊文はポケットから名刺大のカードを取り出し、 「どうぞ」 「……なんですか、これ」 キャッシュカードのようにも見えるが。 「あなたのIDカードです」 「は?」 「これで世界中、桜井コーポレーション傘下のすべての施設に入れますから」 「はああ???」 クエスチョンマークが盛大に飛び交う。 すべての施設って……桜井コーポレーションはあらゆる分野に進出していたはずだ。それこそ畑の肥料の配合から宇宙開発まで、およそ手を出していないものはないほどに。 「ええと、つまり、それって……」 「三剣さんは、顔パスってことですよ」 冗談だろ、おい。 茉莉はまじまじと、手元を見つめた。このカード一枚で、うっかりしたら国家レベルの機密が詰まった場所に入れるってことじゃないか。 「さっ……さっ……さ……」 どもってしまうのは、仕方ないと思う。善良な一市民でしかない自分に、これはあまりにも荷が重い。いや、それどころか、大いなる迷惑だ。こんなものを持っていると知られたら、どこかのだれかに命を狙われるかもしれないじゃないか。 「三剣さん、落ち着いて」 「こっ……これが落ち着いていられますかっ!」 まったく、たおやかでやさしい女性(外見は紛れもなく女性だった)だと思っていたのに、これじゃ冬威といい勝負じゃないか。 「せっかくですが、これは受け取れません」 「でも、もう作ってしまいましたし」 「受け取りたくないんです!」 「困りましたね。それでは、契約破棄ということになってしまいます」 なんだか、不穏な話になってきた。 「今回の件で、父は全面的に菅原事務所をバックアップすると決めました。その条件として、三剣さんに桜井グループと菅原事務所のパイプ役になってもらうことになったんです。もちろん、菅原さんも承知のうえで」 ちょっと待て。おれは聞いてないぞ。 茉莉はぱくぱくと口を動かした。抗議しようと思うのだが、声が出てこない。 「ですから……」 「帰れ」 扉の陰から、声。 茉莉は全身が震えるのを感じた。これは、あのときの声。発作を起こして倒れたときに聞いた、あの男の声。 「Go out」 モスグリーンの双眸が、こちらをひたと見据えていた。 |