宿り木 by 近衛 遼




第二十一話 祈りを捧げる男

ACT6

 そして。
 浅い眠りの中で、茉莉は常とは違うあの男の声を聞いた。
『茉莉が死んだら、俺も死ぬ』
 茉莉。……「まつり」?
 なんだ。あんた、まともに発音できるんだな。おれの名前。
 いつも「マリちゃん」なんて言ってるくせに。あれって、もしかしてワザとかよ。
 低い声。磨ぎ澄まされた「気」。凍るほどに冷たいのに、焼き尽くされるほどに熱い。相反するものが内包されたそれが、あたりに漂っている。
 駄目だ。このままでは。早く目を覚まさなければ。おれは大丈夫なんだから。ちゃんと、ここにいるんだから。ねえ、篁さん……。


「た……」
 声を、出そうとした。でもうまく音にできなくて。ただ唇を動かした。その唇に、なにかが押しつけられた。
 ほんの少し乱暴で、でも温かい。内部にさらに熱いものが侵入してきた。息苦しくなって、かぶりを振る。
「……んっ」
 茉莉はやっと、まぶたを上げることができた。
「マリちゃん!!」
 今度は、いつも通りの声だった。
「よかったーーーっ。このまま起きなかったらどうしようかと思ったよ〜」
 モスグリーンの瞳がうっすらと濡れている。
 はじめて見た。この男の涙なんて。いまにも泣き出しそうな顔は、何度も見たけれど。
 それにしても、どうしてこの男がここにいるのだろう。たしか、尊文のアパートで倒れて、病院に運ばれたはずだが。
 それを訊くと、冬威は憮然とした表情で、
「事務所に、その桜井ナントカって人から連絡が入ったんだよ。マリちゃんが倒れたって。やっぱり、オレがもっと早くに替わってればよかった」
「替わるって、篁さん、きのうまでオーストラリアに行ってたはずじゃ……」
「あー、それね。じつは、あっちのヤマが早く片付いたからさ〜。オレ、三日前には帰ってきてたのよ。ほんとはすぐにマリちゃんに会いたかったんだけど、所長が『三剣くんの仕事の邪魔をしてはいけません』なーんて言うから、ガマンしてたの〜。もう、オレ、マリちゃんのことが心配で心配で、たまらなかったよ」
 今度は明らかな嘘泣きで、冬威はぐすん、と鼻をすすった。
「だから、オレ、毎日お祈りしてたんだー。マリちゃんが早く帰ってきますように、って」
 お祈り?
 ……思いっきり似合わないことしたんだな。世の中の常識も秩序も倫理も、露ほども知らないこの男が。
 いや、でも、「仕事が成功するように」ではなく、ただ単に「早く帰ってくるように」と祈ったのなら、なんとなく頷ける。「最大多数の最大幸福」ではなく、自分の幸福のみを追い求める冬威ならば。
「それは……ありがとうございました」
 一応、礼を言う。内容はともかく、自分のことを心配してくれたのだから。
「それで、桜井さんは……」
「知らなーい。ゆうべ、オレと入れ違いで帰ってったよ」
 それから一度も顔を出していないという。おかしいな。尊文の性格からすると、それは不自然なように思えた。
「なによ、マリちゃん。あんなのがいいの」
 むっつりとした顔。まずい。へんな誤解をされたかもしれない。自分はただ単に、仕事上の理由で訊いただけなのに。
「だったらオレ、髪のばしてスカートはくよっ。ちゃんとメイクしたら、すっごい美人になるんだから〜」
 ……やったことがあるのか、そんなこと。一瞬、その姿を想像した。たしかに冬威は外国の映画俳優並みの白皙の美青年だから、化粧映えはするだろうが。
「待ってて。いまから服と化粧品、買ってくる」
「たっ……篁さん!」
 あわてて起き上がる。ぐらり。視界がななめになった。銀色の星がチカチカ飛ぶ。
 貧血かな。それとも、低血圧かも。ほんとに、どうなってるんだよ。おれってこんなに弱かったっけ?
 思考は妙にクリアなのだが、いかんせん体がうまく動いてくれない。頭から床に落ちそうになったところを、冬威の腕が受け止めた。
「ダメだよ。いきなり動いちゃ」
「……すみません」
 不本意だが、まともに動けない身では仕方ない。いつもとは違う意味で情けなさ爆裂だ。
「でも、その……篁さんはいまのままでいいかな、と……」
 いくらなんでも、スカート姿の冬威と付き合うのはご免だ。それこそ、ご近所や商店街の人々になんて言われるか。考えるだに恐ろしい。
「……マリちゃんっ!」
 がしっ。
 骨も折れんばかりに、冬威は茉莉を抱きしめた。
「マリちゃん、マリちゃん、マリちゃんっ!!」
 耳元で、連呼される。
「は……はい?」
 なんなんだよ。そんなにバカでかい声を張り上げなくても聞こえてるよ。十センチと離れてないんだから。
「オレ、このままでいいの?」
「え……」
「ほんとに、このままでいい?」
 なに言ってんだ。駄目だと言ったところで、いまさらどうにもならないだろうが。
 茉莉は小さくため息をついた。冬威の望む言葉を口に乗せる。
「ええ。そのままでいいです」
「………マリちゃーーーんっ」
 何度目かの絶叫とともに、茉莉はベッドに押し倒された。深い口付けと愛撫。ちょっと待て。ここは病院だぞ。
「た……篁さ……ん……っ……」
 必死に逃れようとしたが、しっかりと押さえつけられていて身動きがとれない。嘘だろ、おい。こんなところで、こんなことされても……。
 ヤバい。
 しばらく離れていたからだろうか。火がつくのが異様に早い。B級ポルノじゃあるまいし、病室で××なんて絶対にイヤだ。
「や……やめてくださいっ。こういうことは、家に帰ってから……」
「『My toy』」
 戸口から、ひっそりとした声。
 冬威が固まった。まるで電池を抜かれたおもちゃのように。
「『それ』に戻りたいんですか。篁くん」
 菅原だった。冬威はゆっくりと、茉莉から手をはなした。
「ありがとう。私も『篁冬威』を失いたくはないです」
 菅原はベッドのそばまで歩を進めた。
「三剣くん、ご苦労さまでした」
 すっと、茶色の封筒を差し出す。
「は?」
「臨時ボーナスです」
「はあ、でも、どうして……」
「桜井尊子嬢は、ついさきほど実家に到着しました」
「え……ほっ……ほんとですかっ?」
 思いっきり声が裏返った。
 尊文が実家に戻ったって? いったい、なにがどうなってるんだろう。自分は尊文に、さんざん迷惑をかけただけなのに。
「出張期間は十日でしたね。残りの五日は特別休暇ということにしておきますから、ゆっくり休養してください。……篁くんは、通常通りのシフトでお願いしますよ」
「わかってる」
 冬威はベッドの足下にすわって、横を向いている。
「じゃ、私は退院の手続きをしてきますから」
 検査の結果、とりたてて異常はみつけられなかったらしい。
「篁くん、車を正面に回しておいてください」
「……了解」
 無機質な声。冬威は茉莉を見もせずに、すたすたと部屋を出ていった。