宿り木 by 近衛 遼




第二十一話 祈りを捧げる男

ACT5

 あの黒縁眼鏡の男はだれなんだろう。
 尊文のことを「フミ」と呼んでいた。幼なじみか、学生時代の友人。あるいは。
 切れ切れに聞こえた会話の内容と、立ち去り際にこちらをにらんだときの視線からして、過去に尊文と親密な間柄だったことがあるのかもしれない。
「お誘いしておきながら、こんなものしかなくて」
 ほうじ茶と大学芋がテーブルに置かれた。どうやら尊文が作ったらしい。
「いいえ。そんな……いただきます」
 ほどよい甘さの大学芋と香ばしいほうじ茶。なんとも懐かしい味だった。
「おいしいです」
「そうですか? ありがとうございます」
 微笑して、自分も湯呑みを口に運ぶ。
 つくづく、いつもと逆だよな。茉莉は思った。
 いつもは自分が作る側。そして、あの「精神年齢五歳」で「トラブルプレイヤー」で「ロシアンルーレット」な男がそれを食べる。
『マリちゃんのごはんは、おいしいね〜』
 しあわせそうな顔でそう言って。
 もう帰国しているはずだな。いまごろ報告書を前にぶつぶつ文句を言っているかもしれない。それとも、そんなものはうっちゃって、さっさと帰ってしまっているかも。
「どうかしましたか?」
 尊文が湯呑みを置いて首をかしげた。
「え、いや、べつに……」
 しまった。ついほかのことを考えていた。しかも、あの男のことを。
「すみません。私のせいで」
「はあ?」
「家に戻る気もないのに、あなたを引き留めるような真似をして……。ご迷惑でしょうね」
 さもすまなそうに尊文は下を向いた。
「いいえ」
 きっぱりと、茉莉は言った。
「これは、おれの仕事ですから。桜井さんに桜井さんの事情があるように、おれにはおれの事情があって、ここにいるんです」
「三剣さん……」
 ふたたび、ゆっくりと顔を上げる。
「それに、おれはまだ、あきらめてませんから」
 尊文を実家に連れていくことを。
 最初は無理だと思っていた。尊文の意志は固い。物欲も名誉欲もない人間にとっては、どんな大企業であろうと、どれほどのポストであろうと、まったく価値のないものだということはわかっていたから。しかし。
「桜井さんはお父上と決別したわけじゃない。ふたりとも、心の底ではお互いのことを思い遣っている。だったら、歩み寄る方法はあるはずです」
「親子だからこそ、譲れないものもあると申し上げましたでしょう」
「譲れって、言われたんですか」
「え……」
「これはおれの一方的な考えですけど……あなたはそんなこと、言われてない」
 敢えて断言した。
 尊文を取締役にと決めたときから、いや、もしかしたらそれ以前から、会長は尊文の生き方を受け入れていたのだと思う。でなければ、わざわざ社会的なリスクを負ってまで、尊文を表舞台に引っ張り出そうとは思わないだろう。
 旧経営陣の不正や古い慣行を根こそぎ断ち切り、まったく新しい体制を作り出す。それを望んでいるのではないのか。
 むろん、経験のない若輩者をいきなり取締役にするには反対もあろう。事実、顧問の何人かはこの人事に異を唱えたし、親の七光だと陰口をたたく者もいた。
 それでも会長は、自分の信念を貫こうとしている。
「言われなかったからこそ、家を出たんじゃないんですか」
 甘えたくなかったから。負担になりたくなかったから。
 だから、この男はひとりで生きる道を選んだ。
「ほんとに……」
 尊文はつらそうに口を開いた。
「おかしな人ね」
 湯呑みを持つ手がかすかに震えている。ひとくち。またひとくち。そして全部、飲みきったあと。
「あなたも、あの人も」
「あの人?」
「そう。さっきの人。図体ばかり大きくなって、中身はちっとも変わってない。まっすぐで、無器用で」
 なんだか、それっておれじゃなくて、あの男みたいじゃないか。
 篁冬威。一途でまっすぐで、傍迷惑なぐらい正直で。ほしいものをほしいとしか言えない、小さな子供。
「ああ、ごめんなさい」
 くすりと、尊文は笑った。
「あなたの方が、あの人よりは大人だわ」
「……おれ、二十四ですけど」
「年のことを言ってるんじゃないの。ものの見方というのかしら。受け止め方が違うのよ。……そうね。あなただったら、私も迷わなかったかもしれない」
 尊文の手が茉莉の腕にのびた。
「あなただったら、よかったのに」
 上体が傾ぐ。長い黒髪がさらりと流れた。
「さっ……桜井さん」
 茉莉の腕の中に尊文はいた。
「少しだけ、このままで……」
 消え入りそうな声。
 この状況は、思いっきりマズいんだけどな。そう思いながらも、茉莉は尊文を突き放すことができなかった。
『あなただったら、よかったのに』
 それなのになぜ「あの人」なのか。「あの人」でなければならなかったのか。
 言葉にならぬ思いがひしひしと伝わる。
「桜井さん。あの黒縁眼鏡の人とは……」
 問い掛けようとした、そのとき。
「く……っ」
 嘘だろ。またかよ。
 茉莉は胸を押さえた。異変に気づいた尊文が体を放す。
 同じだ。発作的な胸の痛み。突き刺すような衝撃が走る。なんなんだ、いったい。いい加減にしてくれ。
 頭の中で叫ぶ。茉莉は意識的にゆっくりと息をした。きのうはこれで、少しラクになったんだが……駄目だ。視界がぼやけてきた。
 二度あることは三度あるって言うけど、ハマりすぎだよ。よりにもよって、仕事中に。
 尊文が119番に電話している。
 悪いことをしたな。連日自宅まで押しかけた上に、三日続けてわけのわからない発作でぶっ倒れて。
「三剣さん、すぐに救急車が来るから……」
 意識を失う直前に、常とは違う尊文の声を聞いたような気がした。