| 宿り木 by 近衛 遼 第二十一話 祈りを捧げる男 ACT4 結局その日も、茉莉はまるで専属の運転手にでもなったかのように、美容院やらフィットネスクラブやらに尊文を送っていき、夕刻には「クラブ・エデン」の従業員室にいた。 「あーら、おとといの坊やじゃないの〜。どしたのよ、こんなとこで。……あ、もしかして、エレナちゃんの靴、脱がせちゃった?」 「え、靴?」 なんのことを言っているんだろう。茉莉はいきなり目の前に現れた長身の人物を見上げた。 彼女(と言っておこう)は「クラブ・エデン」の最古参で、源氏名はリリアンという。元警察官だと聞いたときは、ウチの所長以外にも変わり者の「元」警察官はいるもんだと妙に納得してしまった。 「いやあねー。よーするに、一夜をともにしたのかって訊いてんのよ」 一夜……ねえ。たしかに、したよな。しかも、ひとつ蒲団で。 「はあ、まあ……」 適当にぼかして返事をする。 「ふうん。世間ズレしてない坊やだと思ってたけど、やることはやったのね。じゃ、特別にいいコト教えてあげる」 すっかり勘違いをしたらしく、リリアンは茉莉の腕を掴んで囁いた。 「本気になっちゃダメよ」 濃いルージュの口元が弧を描く。 「本気になったら、あのコは離れていく。だから、素敵な夢を見なさい」 茉莉の額をちょんとつつき、リリアンは金茶色の巻毛を揺らしながら控室を出ていった。 本気になったら、離れていく。 それが、あの男の核の部分なのか。 「三剣さん?」 やわらかな声。茉莉は顔を上げた。ワインレッドのロングドレス姿の尊文がこちらを見ている。 「はい」 「お店が閉まるのは四時ですから、どうぞもうお帰りになって」 「邪魔ですか? おれがここにいると」 「そういうわけではありませんけど……」 「だったら、もう少しいます」 この男の「いま」を探るために。 「なんのおかまいもできませんよ」 「わかってます。おれは客じゃないですし」 「……おかしな人ね」 「よくそう言われます」 とくに、あの男に関わってからは。 商店街の面々からは、キャリアウーマンの妻に代わって家事をしている「主夫」だと思われているようだし、近所のおかみさんたちからは年上の恋人の尻に敷かれているとウワサされているらしい。 そりゃまあ、卵焼きの味付けは塩か味醂か醤油かで十五分も立ち話をした自分も悪かったので、いまさらそういった風評を否定する気はないのだが。 そんなことを考えていたとき。 「……っ!」 突然、胸に突き刺すような痛みが走った。まただ。これはきのうと同じ……。 茉莉はその場にしゃがみ込んだ。尊文があわててそばに寄る。 駄目だ。こんなところで倒れては、店にも尊文にも迷惑がかかる。なんとか外に出なくては。 茉莉は息苦しさに耐えつつ、立ち上がった。 「三剣さん、無理なさらないで」 尊文が背中を支えて、奥のソファに茉莉をすわらせた。 「横になっててください。いま救急車を……」 「だ……大丈夫です。それより、タクシーを……」 「タクシー?」 「今日は……帰ります。車は、あした取りに来ますから……」 ひとことしゃべるたびに、きりきりと胸が痛む。 「わかりました。ママにそう言っておきます。ほんとに、病院に行かなくていいんですか?」 「大丈夫……です」 同じ言葉をくりかえす。なんとなく、痛みにも慣れてきた。きのうはあのまま気を失ってしまったが、今日はなんとかもちそうだ。 「じゃ、ちょっと待っててくださいね」 尊文が控室を出ていく。茉莉はソファに横になり、大きく息をついた。 結局。 その日は、ホテルに帰りつくなり着替えもせずにベッドに倒れ込んでしまった。そして、翌日の午後。 車を取りに「クラブ・エデン」に行くと、ショーのリハーサルをしていたリリアンが、大袈裟に手を振りながら近づいてきた。 「あーら、三剣ちゃん〜」 尊文から茉莉の名前を聞いたらしい。 「なんだか、きのう、大変だったんだって?」 「はあ、まあ。あの、車の鍵を……」 「ああ、鍵ね。木下ちゃん、エレナちゃんのお客さんの鍵、出したげて〜」 クロークの前にいた従業員に声をかける。木下と呼ばれた中年の男が、すぐにキーを持ってきた。リリアンはそれを受け取り、 「はい、三剣ちゃん」 「ありがとうございます」 ぺこりと頭を下げる。 「今日は、桜井さんは……」 「桜井? ああ、エレナちゃんなら休みよ」 「休み?」 「アタシたちにだって、月に六日は公休があるし、有休だってあんのよ。ここのオーナーは、そーゆーとこキッチリしてるから働きやすいのよね。じゃ、お稽古の途中だから、またね〜」 ふたたび、ひらひらと手を振ってステージに戻っていく。 とりあえず、アパートに行ってみるか。二日続けて迷惑をかけてしまったし。 茉莉はエレベーターで地下の駐車場へ降りた。 車を近くのパーキングに入れて、尊文のアパートに向かう。 なにか、お詫びの品でも買ってきた方がよかったかな。そう思ったが、ここまで来てから気がついても、もう遅い。ま、それはあしたでもいいか。アパートの階段の下まで来たとき、上からなにか言い争うような声が聞こえた。 「フミにはなにもわかってない!」 なにやら、切羽詰った声。 「わかる必要はないでしょう。私には関係のないことだもの」 対照的に、落ち着いた声。尊文だった。 「関係あるだろ! だって……」 「まだわからないの。私はとっくの昔に……」 視線がこちらに向いた。黒くつややかな瞳。それがわずかに細められた。 「話は終わりよ」 尊文は小走りに、階段を降りてきた。 「遅かったじゃないの。待ちくたびれたわ」 まるで恋人のように、尊文は茉莉を抱きしめた。 「あっ……あの……」 『黙って』 耳元で、囁き。茉莉は無言のまま、尊文の背に手を回した。しばらくの抱擁ののち。 「帰ってちょうだい。私、これからこの人と出かけるから」 尊文は階段の上にいる男に言った。やや癖毛の短髪。黒縁の眼鏡。身長は冬威と同じぐらいだろうか。ということは、180センチは超えている。 「わかった。帰る」 ぼそりとそう言うと、男は階段を降りた。一瞬、ぎろりとした視線をこちらに向けはしたが。 男の姿が見えなくなると、尊文はぱっと体を放した。 「ごめんなさい。嫌なところを見せてしまったわね」 「いいえ。おれも、いろいろ迷惑かけてるし……」 ほんとに、興信所の調査員がこんなことでどうするよ。やっぱり、おれにはこういう仕事は向いてない。次からは、なにがなんでも断ろう。それでクビになったって、仕方ない。 「三剣さん」 眼前に、尊文の顔。 「は……はいっ。なんですか?」 至近距離で見ても、きれいだよな。男だとわかっていても、ついつい見とれてしまう。 「よかったら、お茶でもいかがですか」 「はあ、まあ、その……お邪魔します」 断る理由もない。茉莉は尊文のあとに続いて、アパートの部屋に入った。 |