宿り木 by 近衛 遼




第二十一話 祈りを捧げる男

ACT3

 桜井尊文は桜井コーポレーションの創業者の孫として生まれた。
 父は二代目の社長であり、いまでは二代目の会長である。現在の社長は会長の末弟で、尊文には叔父にあたる。
「叔父さまのところには、立派な跡取りがいらっしゃるし、いまさら私などがしゃしゃり出ることはありませんでしょう?」
 翌日。
 ハーブティーを注ぎながら、尊子……もとい、尊文は言った。
「そりゃ、戸籍とは異なる性別で選挙に出ることもできるようなご時世にはなりましたけど、私には無理です」
 もともと内気な性格だったのだろうか。いや、でも、もし本当に世間一般の常識に縛られているのなら、いまの生活を選択しなかったはずだ。
 約束された未来を、巨万の富を、それらを捨ててまでこの男はここにいるのだから。
 強いと思う。姿形はどうあれ、この男は自分の道を自分で切り拓く力を持っているはずだ。
「どうして……」
「え?」
「どうして、桜井さんは家を出たんですか」
「そりゃ、私がこういう人間だって父に知られたから……」
「出ていけって、言われたんですか?」
「え、それは……どうだったかしら。昔のことだし、覚えてないわ」
 嘘だよな。
 直感……というより、確信だった。そんな大切なこと、だれが忘れるんだよ。
 茉莉はさらに、当時の経緯を訊こうと身を乗り出した。そのとき。
「っ……!」
 胸に、刺すような痛み。
「……三剣さん?」
 尊文が眉を寄せて、こちらに近づいてきた。
「ちよっと、三剣さん。どうかしたの? 真っ青よ」
 わからないよ。そんなこと。急に胸が苦しくなって……。
 ガツン。ガツン。
 さらに二度、激しい衝撃が訪れた。そのあとは。
 茉莉は、完全に意識を失っていた。


 鳥の声が聞こえる。
 ちゅんちゅんちゅんちゅん……ちーっちちちっ……
 白い光。ああ、そうか、朝なんだな。
 ………朝??
 茉莉はがばりと起き上がった。朝? 朝? あたりを見渡す。見覚えのあるような、ないような……。
 要するに、見覚えはあるけど、どうして自分がいまここにいるのかは、まったくわからない状況に置かれているということで。
 横を見た。長い黒髪。白い頬。
「え、あ、う……うわあっっ!!」
 茉莉は蒲団から飛び出した。ごんっ! 背中と頭をしたたか打つ。
「ってーっ……」
 柱の角にぶつかったらしい。
「おはようございます。あの……大丈夫ですか?」
 ゆったりとしたサンドレスのような寝間着姿の尊文が、蒲団の上に正座してそう言った。
「おっ……おはよう……ございます。あの、おれ、どうして……」
「覚えてないんですか?」
「えっ……あ、その、きのう、ここにお邪魔してるときに、急に胸が苦しくなったのは覚えてるんですけど」
 まさかとは思うが、そのあとなにかあったのか???
 自分の服装を確認する。……嘘だろ。着替えてるよ。
「この、服は……?」
 おそるおそる、訊ねる。
「すみません。勝手なことをして。でも、スーツのまま寝ると、しわになると思って」
 なるほど。さすがに気遣いが細やかだな。……と納得してる場合じゃない。おれはこれでも興信所の調査員なんだぞ。それが、調査対象(というか、説得相手)の部屋に泊めてもらうなんて。
「こちらこそ、すみません。迷惑かけてしまって……」
 茉莉はぺこりと頭を下げた。尊文はくすりと笑って、
「お気になさらず。よかったら、朝食をご一緒しませんか。たいしたものは作れませんが」
 このうえ朝飯まで振舞ってくれるのか? ありがたいやら申し訳ないやら、なんとも複雑な気分である。
 このところずっと、限定約一名のために飯を作る立場にいるもので、たまにこうしてだれかに食事を用意してもらうと、いわく言いがたい感慨がある。
 それにしても、きのうはいったいどうしてしまったんだろう。あの発作的な胸の痛みはなんだったんだ。心臓のあたりだったよな。いまはなんともないけれど。胸を押さえて、首をひねる。
 はじめての外の仕事で、緊張してたからかな。でも、それを言うなら初日の方が心臓バクバク言ってたし。
 やっぱり、わからない。何度目かのため息をついていると、台所から味噌汁のいい匂いがしてきた。赤だしだな、これは。
「ちょっと失礼します。蒲団を上げますから」
 尊文が六畳間に戻ってきた。てきぱきと蒲団を片付け、テーブルを出す。
「なにもありませんけど、どうぞ」
 炊き立てのごはんと、麸とワカメの味噌汁、納豆と沢庵と焼き海苔。湯呑みにはほうじ茶が入っている。
「いただきます」
 きっちりと手を合わす。
 だれかが自分のためだけに作ってくれたものを食べるなんて、ずいぶん久しぶりだ。そりゃまあ、あの男が「お手伝い」でハンバーグやらギョーザやらを作ったことはあるが、仕込や仕上げはこっちがしたんだし。
 そこまで考えて、茉莉はあることを思い出した。
「あの、桜井さんは納豆、何回ぐらいかき混ぜます?」
「え? 納豆……ですか」
「ええ。おれの知り合いで、五百回混ぜると美味しくなるっていうやつがいましてね」
 茉莉は冬威が以前にやったように、かしゃかしゃと納豆を混ぜ始めた。さすがにあの男のように素早くは混ぜられなかったが、なんとか五百回混ぜ終わると、
「で、ここに醤油をたらして、さらに百回」
 かしゃかしゃかしゃ……。
 尊文は目をまん丸にしている。そりゃそうだよな。おれも最初はそうだった。でも、信じられないことだが、これがこのうえなく旨いんだ。
「はい、出来上がりです。騙されたと思って、食べてみてくださいよ」
 ことりと小鉢を置くと、尊文は迷う様子もなくそれに箸をのばした。
「ふわふわしてますね。いただきます」
 納豆だけを口に運ぶ。しばらく咀嚼したのち、
「なんだか、いつもの納豆じゃないみたいです」
「お口に合いませんでしたか?」
 ちょっと心配になって、訊く。
「いいえ。美味しいです。今度、お店でこういうメニューを出してみたらどうか、ママに相談してみますね。あ、そうだ。納豆早混ぜ競争とかやったら、受けるかも」
 「クラブ・エデン」のエレナの顔になって、尊文はくすくすと笑った。
 早混ぜ競争、ねえ。あの男にかなうヤツはいないと思うけど。
 そういえば、あしたあたり、帰国するはずだよな。おれがいないと報告書がめちゃくちゃになるだろうけど、ま、今回は仕方ない。こっちだって、慣れない仕事をやってるんだし。
 帰ったら、たくさん飯を作ってやろう。あっちの方は……まあ、それなりに。
「おかわりはいかがですか」
 尊文の声に、現実に引き戻される。
「あ、はい。いただきます」
 茶碗を差し出し、ふと思った。この男には、食事を作る相手がいないのだろうか、と。
 家を出て八年。いままでそういう相手がいなかったとは思えないが、この質素な生活を見ると、パトロンが付いているわけでもなさそうだ。
 桜井尊文。通称は尊子。源氏名はエレナ。
 この人物を説得する鍵はどこにあるのか。いまだにそのヒントすら、見つけられてはいなかった。