| 宿り木 by 近衛 遼 第二十一話 祈りを捧げる男 ACT2 桜井尊子は突然訪れた客にいやな顔ひとつせず、部屋に招き入れた。 「狭いところですが」 たしかに、狭かった。茉莉の部屋も広いとは言えないが、尊子のアパートは台所と六畳、それにトイレがあるだけだ。 「お邪魔します」 茉莉は恐縮しつつ、中に入った。折畳式の小さなテーブル。それに水屋と背の低い本棚で、六畳間はほぼいっぱいだ。 「お手数をかけて、申し訳ありません」 尊子はそっと、ほうじ茶をテーブルに置いた。 「父には、もう私のことなど忘れてくれと言っているのですが……」 困ったように、ため息をつく。 「そういうわけにもいかないでしょう。どんな事情があるにしても、親子なんですから」 茉莉は資料に書かれてあった尊子のプロフィールを思い出しながら、そう言った。 「親子……。そうですね。でも、だからこそ譲れないこともあるんですよ」 ひっそりと笑うその表情には、えもいわれぬ品がある。 どうして、こんな人が生まれた家を飛び出して、古びたアパートで暮らしているんだろう。そのあたりの事情は資料には記載されていなかった。わかっているのは、尊子が八年前から実家との縁を切って独り暮しをしているということと、ひと月ばかり前に桜井コーポレーションの取締役に就任したということだけだ。 社内には、実際には会社の運営に関わっていない尊子のことをよく思わない者もいて、会長である尊子の父は、次回の取締役会までに尊子を実家へ連れ戻したいと思っているそうだ。 どうせなら、取締役に就任させる前に措置をとればよかったのに。 茉莉はそう思ったが、そんなことは桜井コーポレーションの経営陣も百も承知していて、いろいろと根回しをしたらしい。が、尊子の決意は固く、結局いままで、だれも彼女の心を変えることはできなかった。 「三剣さんとおっしゃいましたね」 「はい」 「父や園田に無理強いされたのでしょうけど、どうかこの話はなかったことにしてください。私はいまの暮らしに満足しておりますし、この生活を乱されたくはないんです」 園田とは、会長秘書の初老の男のことだ。 それにしても、年収何百億の大企業の取締役の座を蹴ってまで、六畳一間の生活をを守りたいというのか。茉莉には到底理解できない心理だが、尊子の淡々とした口調には、それに反論する気を起こさせないなにかがあった。 「……と申しましても、このまますぐに帰ってはそちらさまの立つ瀬もないでしょうから、しばらくは交渉中ということにしておいて、上のかたへも適当に報告してくださって結構です」 「はあ、まあ、それは……」 こっちとしては、助かるよな。茉莉は心の中で呟いた。 なにしろ、自分はあくまでも「事務員」として菅原事務所に就職したのだ。こんな仕事を回されても、実際のところ、どうしていいのかまったくわからない。 「きみなら、やれます」なんて言われてもなあ……。菅原の言葉を思い出して、またひとつため息をつく。 冬威がいれば、少しは手伝ってもらえたかもしれない。文字通り荒事やウラの調査専門の男ではあったが、なんといっても菅原事務所のナンバー1である。こういった場合のノウハウは知っているはずだ。が、タイミングが悪いことに、冬威は三日前からオーストラリアに行っていて、帰国は来週の予定だった。 仕方ない。こうなったら、できるだけのことはして、ダメだったら責任とって辞めればいい。次の仕事が決まるまでは、また実家からの「帰ってきなさい」コールがうるさいだろうけど。 茉莉は座蒲団を外し、両手を前についた。 「ではお言葉に甘えて、そうさせていただきます」 きっちりとお辞儀する。一、二、三。『ビジネスマンのマナーブック』に載っていた通り、三つ数えてから顔を上げると、尊子が後ろを向いて肩を震わせていた。 「あっ……あの、おれ、なにか失礼なことでも……」 しどろもどろにそう言って、立ち上がろうとした。 「……いてっ!」 テーブルの角に向こうずねをぶつけてしまった。はずみで、ほうじ茶の入った湯呑みが倒れる。 「うわっ! す……すみません、大丈夫ですかっ?」 あわててポケットからハンカチを出した。 「どうぞ。これ、使ってください」 茉莉が差し出したハンカチを、尊子がそっと受け取った。 「……ありがとう」 心なしか、声が震えている。やっぱり、なにかまずいことでも言ったかな。茉莉は、すっかり日焼けしている畳に視線を落とした。 なんとも言えない沈黙。気詰まりになって、茉莉が今日はもう帰ろうと思ったとき、尊子がすっと立ち上がった。 「私、これからお店に出るんですけど、送ってくださいますか」 尊子は実家を出てからずっと、夜の仕事をしている。「クラブ・エデン」。それが現在の勤め先だった。 「え、あ、はい。もちろん」 「着替えますので、十五分ほど待ってくださいね」 そう言われて、茉莉は部屋の外に出た。なにやら妙な成りゆきになったが、尊子が自分に悪い印象を持っていないということはたしかだ。 とりあえず門前払いはされなかったし、初日としてはまあまあの出来だと思っていいのだろうか。尊子には実家に帰る意思はまったくないようだが。 「お待たせしました」 ラメ入りの黒のロングドレスにストールを羽織った姿で、尊子が階段を下りてきた。 さすがにプロである。くっきりと化粧を施した顔には、先刻とはまた違った美しさがあった。茉莉はまるで以前からそうしていたかのように、後部座席のドアを開けて一礼した。 「クラブ・エデン」の場所は、資料に載っていたので知っていた。とはいえ、なにぶん不馴れな土地である。何度か道を間違えて、結局、店についたのは開店時間の三十分前という従業員としては大遅刻の時間になってしまった。 「すみません。おれのせいで……」 なんだか、今日は謝ってばかりだな。情けない気持ちで下を向く。 「いいえ。送っていただいたんですもの。それより……」 「はい」 「ついでですから、寄っていきませんか」 「はあ?」 声が思いっきりひっくり返った。 「でも、おれ、車で来てますし……」 「ご心配なく。お車でお越しのお客さまにアルコールを勧めるような者はこの店にはおりませんから。オーナーからもママからも、その点はきつく申し渡されております」 尊子はにっこりと笑った。 「それに、こんなことを申し上げてはなんなのですけど、遅刻をしてしまったので、ひとりではお店に入りづらいんです」 遅くなったのは自分のせいだし、これ以上断るわけにもいかないか。茉莉は地下にある駐車場に車を入れて、尊子とともに店に通じるエレベーターに乗った。 もしかしたら、菅原はこういう場合のことも考えていたのかもしれない。茉莉は出張の経費として、なんと五十万もの現金を預かってきたのだ。しかもレンタカーの代金や宿泊代を別にして。 「クラブ・エデン」がどの程度の店かは知らないが、ホステスのいる店に飲むみに行くなら、万札の五枚や十枚持っていたって安心はできない。 それにしても、これってもしかして「同伴」だよな。なんとなく、うまく利用されたような気もする。あまり散財しないうちに、引き上げなくては。そんなことを考えているうちに、エレベーターは「クラブ・エデン」のある六階に止まった。 ドアがするすると開く。と、そこには、遺跡のような飾柱と背の高いアーチが現れた。どうやら、七階部分まで吹き抜けになっているらしい。 「こちらです」 尊子に案内されて店内に入る。薄暗い店内では、もうミーティングも終わっていたらしく、何人かのホステスたちがそれぞれの席について、なにやら予定表のようなものに見入っていた。 「エレナちゃーん。遅かったじゃないの〜」 横から声をかけてきたのは、身長180はあろうかという長身の人物だった。 「ママが心配してたわよ〜。今日のショーに穴が空いたらどうしようって……あら、こちらどなた?」 「お友達。今日はここまで送っていただいたので、ご招待しようと思って」 「んもうー。エレナちゃんらしいわねえ。でも、それだから、お客さんが次もエレナちゃんをって指名するのよね〜」 低音の声。極めて個性的な言い回し。芝居がかったしぐさ。 もしかして、この人……。 茉莉はもう一度、あたりを見回した。そういえばあの人も、あの人も……なんとなく、そんな感じだよな。てことは……。 そろそろと、となりを窺う。 「あの……ちょっと伺いますけど」 「はい?」 「この店って、もしかして……」 「え、ご存じじゃなかったんですか?」 心底びっくりしたように、尊子が言った。 「父の依頼でいらしたかただから、てっきり私のことも承知しておられるとばかり……」 尊子はあらためて、自己紹介をした。桜井尊子。「クラブ・エデン」での源氏名はエレナ。そして、本名は。 桜井尊文(たかふみ)。戸籍上は、れっきとした男性であった。 |