| 宿り木 by 近衛 遼 第二十一話 祈りを捧げる男 ACT1 菅原事務所のオフィスは、築二十年強のテナントビルの二階にある。広告の看板ひとつないので、じつは興信所だということを知る者は少ないだろう。ゆえに飛び込みの依頼人などめったになく、菅原所長の友人である加賀弁護士の紹介か、口コミの客がほとんどだった。 そんな菅原事務所に、一年に一度いるかいないかの「一見さん」がやってきたのは、所長はじめ菅原事務所の調査員が全員出払っている、とある午後のことだった。 「費用は、いくらでも出します」 年のころは六十前後。白髪の紳士はそう言って、見るからに高そうな本皮のブリーフケースからA4版の封筒を取り出した。 「なんとか、尊子(たかこ)さまを説得していただきたい」 この紳士は某大手企業の会長秘書で、その会長のひとり娘に実家へ帰るよう働きかけてくれというのが、今回の依頼内容だった。 「説得……ですか」 茉莉は差し出された資料と、目の前にいる紳士とを見比べた。 そーゆーのは、ウチの業務じゃないんだけどな。内心、どうしたものかと途方にくれた。 「お話はわかりましたが、いまは……」 担当者がいない、と断ろうとしたら、初老の紳士はがっしりと茉莉の手を握り、 「わかっていただけましたか! それはありがたい。これは当座の経費としてお納めください。謝礼は尊子さまがお屋敷にお戻りになられてからということで、よろしいですね」 「え、あの……」 「では、朗報を待っています」 あまりにも唐突な成りゆきに茉莉が口をぱくぱくさせているあいだに、紳士はすたすたと事務所を出ていった。 ……どうするよ、これ。 応接室のテーブルの上に置かれた資料と分厚い封筒。ちらりと中身を見たところ、新札で百万入っていた。これが「当座の経費」か。たしかに金は惜しまないようだが、なんだか胡散臭い。だいたい、家出した人間を「探してくれ」というならまだわかるが、「説得してくれ」とはどういうことなのだろう。 件の大手企業の会長といえば、御年七十一歳。その子供ということは、四十ぐらいにはなっているだろう。もう一人前の大人だし、結婚もしているだろうに。 それとも、なにか怪しい宗教とか団体に入ってしまったのだろうか。茉莉はぱらぱらと資料をめくった。 桜井尊子。三十二歳。独身。 思ったより若かったな。それに、独身か。こりゃマジで、新興宗教かマルチまがい商法にでも取り込まれたかな。だったら、ウチみたいな興信所に頼むより、その類の事案を専門に扱っている弁護士に相談した方がいいと思うんだけど。 茉莉がぶつぶつと独り言を呟いていると、ばんっ、と勢いよく背中を叩かれた。 「どうしたんだよ。眉間にシワ寄せちゃって」 藤堂だ。 「なんか、また篁に厄介事押しつけられたのか?」 「いいえ。さっき、ちょっと変わった依頼がありまして……」 「変わったって、なにがどんなふうに」 「なにがって……まあ、要するに全部なんですけど」 「へ?」 茉莉は事の次第を説明した。 「で、その人がこれを置いて、さっさと帰ってしまったんです」 茉莉はテーブルの上を見遣って、言った。藤堂は資料と封筒を改め、ヒューッと口笛を吹いた。 「なーんか、コワイ話だな」 「やっぱり、藤堂さんもそう思います?」 「まあなー。言っちゃなんだが、ウチは荒事専門なんだから。ご令嬢をお屋敷にお送りして、はいおしまい、なーんて仕事が回ってくるわけないだろ。しかも飛び込みで。こりゃなんか、ウラがあるかも……」 「藤堂くん、考えすぎは体に悪いですよ」 うしろから、のんびりとした声がした。所長の菅原が風呂敷包みを手に立っている。 「桜井コーポレーションの内情を知っていれば、この話もさもありなん、なんですけどねえ」 「内情って、なんのことだよ。あそこはついこないだ、経営陣が総変わりしたとこだろ。それぐらい知ってるって」 「では、その桜井尊子という人物のポストも知ってますよね」 「へっ? ……そんなの、いたっけ?」 「いましたよ。役員名簿には、本名で載ってます。代表権を持つ取締役として、ね」 「あの、所長。本名っていうことは、この『桜井尊子』というのは、偽名なんですか?」 茉莉は素朴な疑問を口にした。 「ええ、まあ、通称といいますか……あそこも先代が一代で財を成したほどの家ですから、個性的な御仁が多くて」 話が見えない。茉莉が首をかしげていると、 「あーーーーっっ、わかった。あれかよ!」 藤堂が大きく手を打った。 「桜井会長、思い切ったことしたなあ」 「カンフル剤というところでしょうけどね」 「で、俺たちにそのカンフルを運んでこいってか」 ますます、見えない。菅原と藤堂はすっかり事情を把握したらしいが。 「あの、じゃあ、この依頼は……」 「受けますよ。報酬もケタ違いでしょうし」 にっこりと、菅原。 「ただ、だれが尊子嬢の説得に当たるかというのが問題なんですが」 「力づくでかっさらってきていいんなら、俺でも篁でもイケるんだけどな」 なるほど。それでは依頼内容に反する。あの紳士は、あくまでも「説得」してつれてくるようにと言っていたから。 「期限は……十日ですか。難しいですねえ」 「せめて一カ月はほしかったよな」 資料を見つつ、二人は首をひねっている。茉莉はそっと席をたった。とりあえず、コーヒーでもいれよう。自分にできるのは、それぐらいしかない。 いつもより念入りに豆をひき(菅原の趣味で、手動のミルがある)、沸騰したばかりのお湯で丁寧にコーヒーを点てた。 菅原はシュガーもミルクもたっぷりと、藤堂はブラックで。それぞれの好みのコーヒーをそれぞれの好みのカップに注ぎ、茉莉は応接室へ戻った。 「ああ、いい香りですねえ」 「グッドタイミングだな」 なんだか、妙に機嫌がよくなっている。なにかいいアイデアでも浮かんだのかな。そんなことを考えつつ、カップをテーブルに置く。 「どうぞ」 「ああ、ありがとう。……ところで、三剣くん」 「はい」 「きみに、十日間の出張を命じます」 「はあ?」 「十日以内に、桜井尊子嬢をご実家までお連れしてください」 「え、あの、でも、おれ、事務員なんですけど」 「本日より調査員に任命します」 「そっ……そんなこと急に言われても……」 「大丈夫。きみなら、やれます」 がっしりと肩を掴まれる。 ……だから、そういうことを勝手に決めるなよ。 心の叫びは声になることはなく。茉莉は結局、この「初仕事」を受けた。 |