| 宿り木 by 近衛 遼 第二十七話 ご褒美に釣られる男 「ねえねえ、マリちゃん。これでいーい?」 一時間近くかけて、やっと二十行ほどの書類(ちなみに、ファクスの送信簿だ)を書き上げた冬威が、得意満面の顔でそう言った。茉莉は書類を確認し、 「けっこうです」 重々しく答え、卓袱台の上に置いてあった高野豆腐をひと切れ箸でつまんで、差し出した。 「はい、どうぞ」 「わーい。やったあ」 ぱくり。うれしそうに、それを食べる。 茉莉は冬威に、書類を一枚仕上げるごとに、高野豆腐とキヌサヤの卵とじをひとくちずつ手ずから食べさせる約束をしていた。 せっかくの休日に、こんなことを朝から延々とやっているなんて、じつに馬鹿馬鹿しい。が、一旦始めてしまったからは、なにがなんでも、この男に事務書類の書き方を覚えてもらわねば。 茉莉はふたたび、左手に「ビジネス文書ハンドブック」、右手に菜箸を構えて精神年齢五歳の男と対峙した。 思えば、初対面のときから冬威には報告書の代筆を押しつけられていた。菅原事務所に採用されたばかりで、業務内容もほとんど把握していなかったというのに。 調査資料のフロッピーや領収書の山を前にして、どこから手をつけていいか途方にくれた記憶がある。もっとも、あのときは所長の菅原海里がフォローしてくれて、なんとかまともな報告書が作成できたのだが。 そのあとが、大変だったよな。 やっと仕事を覚えたと思ったら、この男とこんなカンケイになってしまった。最初はきっぱり、ゴーカンだ。いや、自分は男だから、強制猥褻か。冬威が言うには「強制なんかしてない」らしいが。 抵抗できないようにするのは、十分、強制に値すると思うのだが、この男にそんなことを言っても「のれんに腕押し」、「糠に釘」である。 結局、なし崩し的に「トラブルプレイヤー」だの「ロシアンルーレット」だのと称される企画外の男の世話をしてきたが、このところ茉莉もいろいろと忙しくなってきた。本来の事務の仕事のほかに、菅原事務所が年間契約をしているとある企業との連絡役のようなこともしているからだ。 その会社の名は、桜井コーポレーション。関連企業は数知れず、政財界にも大きな影響力を持っていると言われている。 以前、茉莉はその桜井コーポレーションの会長の息子と、とある仕事で関わったことがあり、その後、菅原事務所は桜井コーポレーションからの調査依頼を継続的に受けることになった。業務連絡だけなら電話やメールやファクスで十分だが、契約書や領収書など、じかに手渡さなくてはいけない書類や、あるいは外部に漏れては問題のある連絡事項などは、両者とももっぱら茉莉を通じて遣り取りしていた。 どうして、自分みたいな一介の事務員がこんな責任の重い仕事を任されるのかはわからない。ただ、菅原事務所に世話になっている限り、それを断ることもできない。 一日は、約二十四時間。それは万人に共通だ。限りある時間を有効に使うため、茉莉は冬威に自分の仕事の報告書は自分で書くよう要求した。 「えーっ、でも、オレ、そーゆーの苦手だし」 子供のように、唇を尖らせて抗議する。 現場にいるときはどんな困難もクリアする実力があるくせに、どうしてデスクワークになると駄目なんだ。ウラ社会の人間との駆け引きや、命の遣り取りだってやってきたはずなのに。 「報告書も、仕事の一部です」 茉莉は辛抱強く説得した。 「篁さんは優秀な調査員なんですから、やろうと思えば報告書だって立派に書けますよ」 「豚もおだてりゃ木にのぼる」という昔のアニメのセリフを脳裡に浮かべながら、続ける。 「わからないところは、おれが教えますから」 茉莉がそう言うと、冬威はぱっと顔を上げて、 「うんっ。オレ、やってみる。マリちゃんて、やっぱりやさしいねーっ」 どうやら、仕事面でもかまってもらえるのがうれしいらしい。こうして、茉莉は冬威にビジネス文書の書き方を指導することになったのだが……。 そのご褒美が高野豆腐というのが、なんとも情けない。 例のワラ人形の一件以来、社会常識を学ぶことに意欲を見せている冬威は、今度は健康志向に目覚めたらしく、「ためしてヨッシャ!」とか「今日もまるっきり!思い込みテレビ」とか「やってみよう大辞典」など、最近の健康食品や健康法を紹介するテレビ番組を録画している。で、日本古来の食文化はやはり素晴らしいと思ったらしく、このところ和食に傾倒していた。 「この高野豆腐、ほんとーにおいしいねー。マリちゃんの愛がこもってるからかな〜」 愛はともかく、執念はこもってるぞ。 茉莉はぱさりと、次の課題を差し出した。 「じゃ、今度は仕事が遅滞したときの詫び状です。依頼人の気分を害さないよう、気をつけて文面を考えてください」 「そーんなの、オレたちの仕事っていつなにが起こるかわかんないじゃん。いちいちこんなの書かなくても……」 まただ。茉莉は脱力した。 たしかに現場ではそうだろう。しかし、現場の状況がまるっきりわからないのに、苦情を言われるのはこっちなんだぞ。 「いちいち報告してもらわないと、ますます混乱するんです」 茉莉は例題文を指し示しながら、言った。 「この場合、依頼人の認識と現場の状況に錯誤があります。この点だけでいいですから、きちんと報告してください」 「あ、そうかー。マリちゃんて頭いいんだねー」 ふんふんと頷いて、冬威は鉛筆を握った。しばらくあれこれ書き直していたが、やがて十行ほどの文章を完成させて、 「できたよっ。見て見て〜」 ほう。今度はかなりまともだな。 社交辞令の必要な外交的文書より、事実のみを的確に伝えるものの方が得意らしい。その文面は、じつに過不足なくできていた。もっとも「詫びる」という点から言えば、いまひとつであったが。 「たいへん、状況がよくわかる内容です」 茉莉はまたひと切れ、高野豆腐を冬威の口に運んだ。 「んー、おいしー。ありがとうね、マリちゃん」 うきうきと、言う。 「次は、どんなの書いたらいいの?」 高野豆腐ひとつで、思いっきりやる気になっている。ある意味、ケタ外れだ。 「そうですね。今日はこれぐらいにしておきましょうか。もう夕方ですし……」 そろそろ帰ってもらおう。そう思っていたら、 「あ、そうだねー。今日のおかずはなにかなーっ」 …………………。 このうえ、晩飯まで食うのか????? クエスチョンマークが乱舞する。茉莉は軽い目眩を感じた。てことは、当然そのあとも……。 がたん、と、茉莉は卓袱台を叩いて立ち上がった。 「買い物に行ってきます!!」 財布を手に、家を出る。 馬鹿野郎。こちとら、今日は疲労困憊してるんだ。このうえアレまで付き合ってられるか。なんとしてでも、食欲だけで満足してもらうぞ。 今夜はすき焼きだ。霜降り和牛だ。卵は名古屋コーチンだ。どうだ。モンクあるかっっ!!! 三剣茉莉は全速力で、商店街に向かって走った。 (THE END) |